レスターで愛された岡崎慎司 不遇を味わっても復活…“指揮官の未来”を期待させる男の真骨頂【現地発コラム】
思いのほか早く訪れた岡崎の“ボロボロになる時期”
元日本代表FWの岡崎慎司選手が2月26日に今季限りでの引退を表明した。実はこの引退発表から1年前、ZOOM越しではあったがレスター・シティ公式サイトの企画でベルギー1部シント=トロイデンでプレーする岡崎をインタビューしている。
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「ヨーロッパでボロボロになるまで、どこからもオファーが来なくなるまでプレーがしたいと思っています。そして40歳でW杯に出場できたら(笑)。そんな夢も描いています」
そう笑顔で話してくれた岡崎。ただ、“ボロボロになる時期”は思ったより早く訪れてしまったようだ。
現在プレミアリーグでは、冨安健洋(アーセナル)、三笘薫(ブライトン)、遠藤航(リバプール)、橋岡大樹(ルートン・タウン)と4名もの日本人選手がプレー。冨安と遠藤は優勝を争うビッグクラブで堂々たるパフォーマンスを見せており、故障中の三笘もブライトンでは完全にエースと呼べる地位を確立している。
けれども筆者からすると、23シーズンにわたるプレミア取材で出会った日本人選手のなかで最も印象に残り、愛着のある選手は誰かと聞かれたら岡崎と答える。試合後に彼ほど自分の感情を隠すことなく、どんな質問にも真摯に答えてくれた選手はほかにいなかったからだ。
我々と言葉を交わすことで、終えたばかりの試合を細部まで振り返っていたのかもしれない。話せば話すほど、サッカーに取りつかれている男という印象が強まった。時には原稿に書けない発言もあったが、「俺はこう思うんだ」というふうに心にある言葉をずばずば言ってきた岡崎の姿が今でも脳裏に焼き付いている。
そんな言葉の中には奇跡の優勝を成し遂げてクラブの大英雄となったクラウディオ・ラニエリ監督に対する憤激もある。プレミアリーグ制覇で出場権を獲得したレスター2年目でのUEFAチャンピオンズリーグ(CL)、グループリーグ初戦(クラブ・ブルージュ戦/アウェー/3-0)での“裏確執”とも呼べるエピソードをこう話す。
「みんなは覚えているかな。僕は初戦、ベンチからも外れました。もちろん、僕の中ではリーグで貢献しきれていないという気持ちはありました。でも自分の力もあって勝ち取ったCLだったと思う。その直前のリーグ戦、リバプール戦でも先発して3日後の試合でした。ブルージュ(ベルギー)に行って、監督から名前を呼ばれなかった。今でもよく覚えています。ベンチにも入らないのかと、その時は怒りが込み上げました。この前(昨年)もブルージュに試合で行ったんですよ。その時も『ここか』とあの日を思い出しました。すごく悔しかった」
ラニエリ監督がレスターに就任したのは、ギリシャ代表監督を解任されたあとの63歳の時。48歳で就任したチェルシー時代の気難しい表情は消え去り、ニコニコとした好々爺(こうこうや)となっていた。ミラクル・レスターを率いて優勝した2015-16シーズンの英国ではそんな人懐っこいキャラクターも手伝い、ラニエリ監督は時の人となった。そんなラニエリ監督に対し、岡崎はレスターで出会った当時の率直な印象をこう明かす。
「噂に聞くほど名監督のオーラはなかった(笑)。ただし、勝ち進む度にテンションが上がって、ユニークさが出てきたと思う。その前年、ドイツでトーマス・トゥヘルの指導を受けていて、これこそヨーロッパの最先端だというトレーニングをやっていたことがあったので、練習はオーソドックスだと思いました」
また岡崎によると、記者室ではニコニコとしていたラニエリ監督はサッカーに厳しい一面もあったとのこと。「基本を大事にする監督だというイメージ。まずはディフェンスをしっかり、コンパクトな布陣で守れというというイタリア人らしい指導だった」と指導者としての本質に触れている。
この「ディフェンスをしっかり」という教えに岡崎はインスパイアされた。
「守備意識の強いサッカーの中で、(ジェイミー・)バーディーとの2トップというより、トップ下に下がって、守備に参加するイメージが湧きました」
ラニエリ監督の指導があったからこそ、トップ下に入りながら中盤のエンゴロ・カンテやマーク・オルブライトンと共鳴するような波状プレスをかけかれた。そうしてあの優勝チームになくてはならないピースとなったことを彼は認めている。
「CLも夢だったので、そこでプレーできたことは今でも誇りです」
ところが、優勝してCL出場権を獲得した翌シーズン、ラニエリは突如として岡崎選手を冷遇し始めた。かつての「ティンカーマン」(問題ないところをいじって機械を壊してしまう修理工の意)に戻ってしまったのだ。
その直接的な原因になったのが、イスラム・スリマニの加入だった。この前年の2015-16シーズンにスポルティング(ポルトガル1部)で33試合に出場し27ゴールを記録。そんな実績を引っ提げ、クラブ史上最高額となった3500万ポンド(約68億6000万円)の移籍金でまさに鳴物入りでレスターに加わった。
また、スリマニは優勝シーズンにプレミアリーグMVPに輝いたリヤド・マフレズと同胞。アルジェリア代表での共闘経験があることから、チームにすんなり溶け込めると期待されたのである。
しかし、結果的には新しいおもちゃに夢中になったラニエリ。岡崎を外したことで、奇跡の優勝を成し遂げたチームの攻守のバランスは崩れ、リーグ戦で降格権に沈む不振に陥ると2017年2月23日に解任された。
「まさかの解任でした。でも、そのおかげでセビージャ相手のCL決勝トーナメント初戦の第2レグに先発して自分でも納得できるいいパフォーマンスができた。プレミアも夢だったが、もちろんCLも夢だったので、そこでプレーできたことは今でも誇りです」
「常にタンクを空にする」男をサポーターは今でも忘れていない
その後に岡崎選手を先発に抜擢したのは、この時点で代行監督だったクレイグ・シェークスピア。優勝の前年、シーズン終盤の9試合で7勝1分1敗の奇跡的な戦績を残し、プレミアリーグに残留させたナイジェル・ピアソン監督の右腕とも呼べるコーチだった。岡崎の価値をしっかりと評価して先発レギュラーに戻すと、リーグ戦の戦績も立て直し、最終的には12位まで順位を戻してクラブの危機を救っている。
岡崎本人もこのシーズンは非常に苦しい思いをしたと思う。新加入の選手を重用されて、優勝シーズンの貢献を無にされてしまったのだから。
思うに、ラニエリ監督は優勝したことで色気が出てしまったのだろう。就任当初は前任がスキャンダルで突如解任されたため補強に意見を挟むことはできず、自分の色を全く出すことができなかった。何もできず何もせずに迎えたシーズンだったが、チームはピアソンに鍛えられた厳しいマン・マークを受け継ぎ、そこにバーディーとマフレズの覚醒で突然変異した。
また、就任当時のレスターは降格候補だったチーム。そんな状況でプレッシャーが少なかったラニエリのしたことといえば、キャリアの終わりに差し掛かっていたベテランが多かったチームに週2日の完全休養を与え、コンディション調整を選手の自覚に任せたことくらい。このやり方が、鬼軍曹のようだったピアソン監督とは対照的で選手の心を掴んだ。ところが優勝してやる気が出ると、本来の“壊し屋”の本性が出現してしまったのである。
そんなややつかみどころのないラニエリの下で、逆境も味わった岡崎だが、最終的には悔しさもバネにして、シェークスピア代行監督の下でレスターの中核に復活した。
「夢のプレミアリーグだったんで、もうすべてが夢の中という感じでした。リバプール、マンチェスター・シティー、チェルシー、そういったチームと対戦することもできた。けれどもやっぱり当初は、試合に出るために必死でやっていた。
もちろん、レスターが優勝するとは思っていなかった(笑)。だから最初は、自分がプレミアでどれだけできるのか、(レオナルド・)ウジョアや(アンドレイ・)クラマリッチというライバルがいて、ジェイミーも含めて、ストライカーのチーム内競争に勝てるかというところに集中していた。
サバイバルに必死だった。でもそれがたまたまチームにもいい影響を与えたと思う。もちろん主役はリヤドやジェイミー、カンテという選手だったけど、自分のような選手が競争で必死になることで、チームが活性化することもある。またその必死さは、自分がチーム内で一番だったと思っている」
岡崎がレスターでどのような思いでプレーしていたのか、どんなことも必死さを武器に乗り越えてきたのかが明確に伝わってくる。そんな姿勢はレスター時代最後の指揮官となったブレンダン・ロジャース監督にも伝わった。岡崎についてこう評していたのだ。
「英語では全力を尽くす男達を『常にタンクを空にする』と表現する。シンジはまさにそういう男の1人だった。彼は練習でもタンクを空にした。どんなにきつい練習でも笑顔で耐えた。そんなサッカーに対する愛情が、シンジをこれだけの選手にした」
昨年にレスター公式サイトが岡崎の特集を企画したのは、常に全力を尽くし奇跡の優勝に貢献した小さな日本代表FWの姿をサポーターが決して忘れないからだ。
1年前に話した時には「まだ早い」という苦笑いが混じった表情で引退後についてのコメントは少なかったが、「ヨーロッパの経験を活かして指導者への道を歩みたい」と語っていた。
となれば、“サッカー漬け”で鍛えたプレーを言語化する能力を持ち本場ヨーロッパで全力を尽くすことがどれほど大切かを知る男の未来に大きな期待を寄せないわけにはいかない。そうやって日本代表でも歴代3位となる50ゴールの偉業を成し遂げてきたのだから。
(森 昌利 / Masatoshi Mori)
森 昌利
もり・まさとし/1962年生まれ、福岡県出身。84年からフリーランスのライターとして活動し93年に渡英。当地で英国人女性と結婚後、定住した。ロンドン市内の出版社勤務を経て、98年から再びフリーランスに。01年、FW西澤明訓のボルトン加入をきっかけに報知新聞の英国通信員となり、プレミアリーグの取材を本格的に開始。英国人の視点を意識しながら、“サッカーの母国”イングランドの現状や魅力を日本に伝えている。