長さ8cm深さ2cmの負傷「まるでボクサー」 傷口縫合で強行出場…オフト監督“教え子”の闘志【コラム】

かつて浦和で活躍をした坪井慶介【写真:Getty Images】
かつて浦和で活躍をした坪井慶介【写真:Getty Images】

味方同士の衝突で坪井が流血、治療後に復帰しフル出場した

 前半36分、鹿島アントラーズが獲得した2本目の左コーナーキックだった。

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 小笠原満男が蹴ったボールはゴールから遠ざかっていく弾道で、ペナルティーエリアの外側を通過した。これを浦和レッズの坪井慶介とエメルソンがヘッドで跳ね返そうとしたら、両者が空中で激しく衝突。坪井の左顔面とエメルソンの右側頭部が勢いよく重なり合い、ピッチに倒れ込んだ。坪井は流血が止まらない。

 2003年11月3日。東京・国立競技場では、浦和と鹿島による2年連続同一カードのナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝が争われていた。前年、初のファイナルに駆け上がった浦和だが、後半14分に小笠原のシュートが井原正巳の体に当たってコースが変わり、決勝点を奪われた。0-1で敗戦していた。

 浦和はその雪辱戦の前半13分、山瀬功治のヘディングシュートで先制し、なおもエメルソンと田中達也の強力2トップが鹿島の守備陣形を切り崩し、攻勢の時間帯を継続中という時に緊急事態は発生した。

 タッチラインの外で応急処置を受けたエメルソンは、激突から5分後の前半41分に包帯を巻いて復帰。しかし傷口がより深い坪井は、担架でドレッシングルームへ運ばれた。

 左目の上を裂傷。長さは8センチで、深さは2センチ。ハンス・オフト監督が「治療にどのくらい掛かる?」と尋ねると、チームドクターの仁賀定雄医師は「5分と少しです。急いで縫合すれば後半から出場できます」と答えた。指揮官が続ける。

「しかし治療したところで、プレーすることは可能だろうか?」

 2人の会話が耳に入ってきた坪井は、「大丈夫です、プレーできますからやらせてください」と申し出た。

リベンジの思いも胸にピッチへ帰還

 加入1年目の前年は開幕戦から3バックの右ストッパーで先発し、レギュラーに定着した。ナビスコ杯では当時23歳以下の活躍した選手に贈られるニューヒーロー賞を受賞(※18年からは21歳以下に変更)。しかし準優勝では何の意味もないとし、「来年もこの舞台に戻って今度は勝ちたい」とリベンジを口にしていた。それだけに手負いであろうと出場を志願したのだ。

 常識的には交代だ。ボランチの内舘秀樹を坪井の位置に1列下げ、控えの長谷部誠をボランチで起用するのが常道で、ベンチにいた堀之内聖を坪井と代える策もあった。通常では考えられない対応だが、オフト監督は坪井の帰還を待った。

 仁賀医師がステープラーと呼ばれる医療用ホチキスで傷口を縫合。付き添ったクラブの福岡靖人マネジャーが手を握ると、坪井は「まだ1-0のままなの?」と試合状況を気にしていたという。

 浦和は3分あったロスタイムも凌ぎ、1-0で前半を折り返した。

 雨脚が強くなってきたなか、後半のピッチに向かう隊列に包帯をぐるぐる巻きにした背番号2がいた。左目は腫れている。見るからに痛々しい姿だが、自慢のスピードや1対1での応対、素早いカバーリングに衰えはなく、ヘディングも怖がることなく競り合った。

 アイボリー色のユニホームに身を包み、鋼のような精神で鹿島のつわものと真っ向勝負した。そんな勇者の姿にチームメートはさらに闘争心をたぎらせる。

 後半3分、平川忠亮の絶品スルーパスからエメルソンが2点目を決めれば、同11分には田中が軽やかなドリブルからマーカー2人を抜き去って弾丸シュートを蹴り込んだ。同41分にエメルソンがものにした4点目で勝負は決着。鹿島を無失点に封じ込める完勝で、悲願の初タイトルを手に入れた。

 公式スーツに着替えて現れた坪井の左目はふさがったまま。まぶたは紫色に腫れ上がり、傷口をガーゼで覆った姿はまるで打ち合いを演じたボクサーのようだった。

「激突した後も意識はしっかりしていたし、止血さえできれば続行できると思ったので最後までピッチに立っていたかった。後半の途中から左目がどんどん腫れ始め、終了間際にはほとんど見えない状態だったけど、去年の借りを返せて嬉しい」

“アジアの壁”と呼ばれ、日本代表主将も務めた井原が後継者に指名した男は、「サポーターのためにも勝つしかないと思って戦った」とも言った。不屈の闘志はプロ魂の発露にほかならない。

 一方のオフト監督は試合内容についてはほとんど触れず、坪井を続行させた具体的な説明もなく手短に会見を終わらせた。

後日、オフト監督が坪井を交代させなかった理由を明かす

 この5日後、リーグ戦3位の浦和は首位東京ヴェルディとの上位決戦に臨んだ。試合会場の浦和駒場スタジアムで前日練習が行われ、囲み取材が終わると私はオフト監督に呼ばれて人気のない場所へ移動。ナビスコ杯の優勝会見で辞意を表明していた指揮官は長い時間、クラブへの提言や水面下で新監督を探していた犬飼基昭社長への怒りなどを一方的に喋り続けた。

 その合間に坪井の代役を送り込まなかった理由を尋ねたら、「私の教え子だからだ」とだけ答えた。

 この言葉を聞いた時、2人が剣術使いの師匠と門弟の関係に思えた。手傷を負っても、師が授けた剣豪の心得を弟子はきっと守り抜くと信じていたのだ。

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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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