王国ブラジル、W杯予選敗退の危機→なぜ日韓大会で優勝? ロマーリオVSロナウド論争の賭けに勝ったスコラリ采配の妙【コラム】

日韓W杯で目覚ましい活躍を見せたロナウド【写真:Getty Images】
日韓W杯で目覚ましい活躍を見せたロナウド【写真:Getty Images】

W杯南米予選で苦戦…未曽有の危機でセレソンを救ったルイス・フェリペ・スコラリ

 18試合の成績が9勝3分け6敗。2002年日韓ワールドカップ(W杯)の南米予選を戦ったブラジルの成績である。最終的に予選3位で本大会に出場することになるセレソン(ブラジル代表の愛称)だが、その戦いは成績が表しているように、初の予選敗退という未曽有の危機と背中合わせの厳しい状況が続いた。成績不振による監督交代を繰り返し、4人の人物がチームを率い、本大会出場を最終節で決めるという綱渡りの戦いとなった。

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 辛くも本大会出場に導いた指揮官はルイス・フェリペ・スコラリ。苦しんだ予選とは対照的にスコラリに率いられたブラジルは、本大会で見事に優勝を果たす。ブラジルは南米予選からどのようにして5度目のW杯制覇へと辿り着いたのか。それはスコラリの信念を貫いた抜本的な改革と、少しばかりの幸運によってもたらされた優勝だった。

 かつてスコラリは小さくない劣等感を持っていた。彼がブラジル全土にサッカーの指揮官としてその名を知られるようになったきっかけは、グレミオでの成功だった。

 勇敢なガウショ(カウボーイ)の地で知られるブラジル南部の地リオ・グランデ・ド・スル州を本拠地とするグレミオのサッカーは、伝統的に土地柄そのままの激しいスタイルが特徴だ。

堅固な守備をベースにボールを奪い、攻撃の主軸はカウンターアタックというグレミオのサッカーは、スコラリの下、絶頂の時を謳歌する。1994年にコパ・ド・ブラジル(カップ戦)、95年には南米王者を決めるリベルタドーレス杯、さらに96年にはブラジル全国選手権優勝の栄冠に輝くことになる。

 だが、守備を重視した勝利至上主義のパワースタイルは、ブラジルらしくないと言われ国民からの評価は低かった。特に華やかなサッカーを標榜するサンパウロ州やリオ・デ・ジャネイロ州のチームのファンからは、実際に試合をするとグレミオに勝てない悔しさからか、負け惜しみが混じった非難を受けることになる。

 地元以外では称賛されない状況に、スコラリは次第にストレスを感じ始める。そういった精神的抑圧は彼の心を主流への憧れという形に変えていく。タイトルを獲得すればするほど、サンパウロ州やリオ・デ・ジャネイロ州のチームでも勝てるという自信は膨らみ、主流への憧れは一層強いものになっていった。

パルメイラスからのオファーを受け…ジュビロ磐田の監督をわずか4か月で辞任

かつてジュビロ磐田の監督も務めたルイス・フェリペ・スコラリ【写真:徳原隆元】
かつてジュビロ磐田の監督も務めたルイス・フェリペ・スコラリ【写真:徳原隆元】

 そしてチャンスが回ってくる。97年にパルメイラスからのオファーを受け、念願のサンパウロ州の強豪クラブを指揮することになる。この時、スコラリはジュビロ磐田の監督に就任していた。おそらく遠い日本での指導を決断した理由は、ブラジルでは正当に評価されないことに嫌気がさして、逃避と表現しては言い過ぎかもしれないが、母国とはまったく関係のない国での指導を選んだように思う。

しかし、ブラジルの本流と言えるパルメイラスからのオファーにスコラリは心を動かされ、磐田の監督をわずか4か月で辞任する。それほどパルメイラスからのオファーは断ることができない魅力的なものだった。

 言うまでもなくパルメレンセ(パルメイラスファン)はクラッキ(スター選手)たちが創造するハイセンスなサッカーに興奮を覚え、その体現を強く望んでいた。スコラリが課された使命は、だれもが羨むブラジルらしい華麗なサッカーで勝利するということだった。しかし、彼はこれまでの自らの成功体験の根幹を成す激しいファイトを最優先とするサッカー哲学を簡単には捨てることができなかった。

 スター選手の能力を使い切れず、ときに3人のボランチを置く消極的なサッカーは、敗戦の山を築くことになる。そうした退屈なサッカーにサポーターたちはブーイングという形で、強豪チームらしくないスタイルを徹底的に批判した。クラブ内部、外部からの強烈なプレッシャーを受け、スコラリにはビッグクラブでの成功は無理だと思われた。

 だが、スコラリは並の監督ではなかった。自らのサッカー理念がパルメイラスでは適応しないと悟ると、戦術やサッカーのスタイルの転換を図る。時間を費やしたとはいえ、98年後半には南米の強豪チームがタイトルを争うコパ・メルコスールに優勝。99年には自身95年以来2度目となる南米チャンピオンの座も獲得した。

 このパルイメラスでのリベルタドーレス杯優勝は、スコラリの監督としての地位を不動のものとする大成果だった。サポーターからはいつしか「ずっとチームにいてくれ」とコールを受けるまでになっていた。

 そのスコラリに苦境に立つセレソンの監督という大仕事が舞い込む。2002年日韓W杯の南米予選を戦っていたブラジルは指揮官バンデルレイ・ルシェンブルゴの迷走に端を発した混乱で低迷が続いていた。

 ルシェンブルゴ解任後、ワンポイントでコーチのカンジーニョが指揮を執り、正式に監督に就任したエメルソン・レオンも結果を出せずチームを去ることになる。この苦境に追い詰められたセレソンに、CBF(ブラジルサッカー連盟)はスコラリを新たな指揮官として指名し、彼もついに腰を上げる。ブラジル国民の期待を背負い、最悪の状況での監督就任の決断を下したのだった。

批判を真正面から受け止め、信念を貫いた姿は“フェリポォン”

日韓W杯で優勝カップを掲げるカフー【写真:徳原隆元】
日韓W杯で優勝カップを掲げるカフー【写真:徳原隆元】

 ここでスコラリはセレソンで抜本的な改革に着手する。もはや、かつてのブラジルが目指した攻撃的なサッカーを復活させることは不可能と察したスコラリは、新たな戦術をセレソンの選手たちに課したのだった。彼が構想したセレソンの新たな未来像は、ブラジル伝統の4バックを捨てた3-5-2のスタイルに投影されていた。それは最初は理解者のいないたった1人の挑戦だった。

 スコラリは退屈と非難されることを承知で、勝利のみを追求した守備重視の3-5-2のサッカーで南米予選を戦い抜く。そして、ブラジルは予選最終節での勝利によって、かろうじて本大会出場を決めたのだった。

 この低迷に劇的な変化をもたらしたのは、ロナウドというカードがチームに加わってからだった。日韓W杯本大会に向けたチームの関心事はチームの攻撃の急先鋒を担う選手は誰になるのかということだった。そのポジションにはスコラリの構想では、怪我からの復帰を待つ形でロナウドが適任と考えられていた。

対してサポーターたちはロマーリオに期待を懸けていた。しかし、スコラリは初采配となった対ウルグアイ戦以来ロマーリオとの間には確執が生まれており、その後どんなにチームが危機に瀕しても頑として、このストライカーをセレソンの舞台に招集しようとはしなかった。

 南米予選を突破したあとでもこの姿勢は終始一貫し、ロマーリオは招集されず、代わりにロナウドに期待をかけ続けた。ロナウドが怪我から完治すればチームの核弾頭となることを信じて止まなかった。

 ここでスコラリは賭けに勝つ。国民が復活を待望していたロマーリオを無視し、ロナウドをエースとする構想が見事に的中。この選択にメドが立つとスコラリの心の中にも余裕が生まれ、サッカーに対する視野も広がった。

そうして誕生したのが、これまで中盤でプレーしていたリバウドをロナウドと前線でコンビを組ませ、ブラジル屈指のテクニシャンであるロナウジーニョをFWからゲームメーカーへとポジションを変更するトライアングルに位置する3Rの攻撃陣だ。このフォーメーションを確立したセレソンの調子は、一気に急上昇を描くことになる。

対戦相手にも恵まれた。7試合を戦ったセレソンの相手で、強敵と呼べる国は準々決勝のイングランドと決勝のドイツだけだった。こうした幸運もブラジルに味方する。

それにしてもかつてない失墜を経験し、辛くもW杯本大会出場を決めたセレソンの到着地点が、キャプテンのカフーが黄金のカップを横浜の夜空に高々と掲げて完結するなど、どれほどの人が予想しただろうか。スコラリは21世紀初のW杯でブラジルを5度目の世界制覇へと導いたのだった。

 スコラリはその後にポルトガル代表監督などを務め、自国開催となった2014年W杯には再びセレソンの指揮を任される。しかし、ここで決定的な敗戦を喫することになる。準決勝でドイツに1-7と大敗し、彼の栄光のキャリアに傷が付いてしまった。

だがセレソンをW杯優勝に導いた事実は色褪せることはない。スコラリの愛称はフェリポォン。フェリペに指大辞を付けた言葉だ。指大辞は性質や程度が大きいことを意味し、長兄や偉大なという意味を持つがスコラリの場合は偉大さを示すというより、親しみを込めたフェリペの親父さんという感じだろうか。

 批判を真正面から受け止め、信念を貫いた指導で最後は人々から愛されたスコラリは、いまのところブラジルをW杯優勝へと導いた最後の指揮官となっている。

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(徳原隆元 / Takamoto Tokuhara)



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徳原隆元

とくはら・たかもと/1970年東京生まれ。22歳の時からブラジルサッカーを取材。現在も日本国内、海外で“サッカーのある場面”を撮影している。好きな選手はミッシェル・プラティニとパウロ・ロベルト・ファルカン。1980年代の単純にサッカーの上手い選手が当たり前のようにピッチで輝けた時代のサッカーが今も好き。日本スポーツプレス協会、国際スポーツプレス協会会員。

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