なぜ史上2人目の東大卒Jリーガーは誕生したのか 大手企業内定を辞退→24歳で現役引退…異色のキャリアの真相【インタビュー】
【元プロサッカー選手の転身録】添田隆司(藤枝)前編:大手企業の内定を辞退してJリーグ挑戦へ
世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。
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今回の「転身録」は、関西サッカーリーグ1部おこしやす京都ACの代表取締役社長を務める添田隆司だ。東京大学出身の添田は2015年に当時J3だった藤枝MYFCで史上2人目となる“東大卒Jリーガー”として注目を集め、17年に現役を引退。18年にはおこしやす京都の社長に就任した。前編では、大手企業への内定を辞退してJクラブ入りを決意した理由や、選手兼社員としてプレーした異色のキャリアを振り返ってもらった。(取材・文=石川遼)
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添田は幼稚園の頃にサッカーと出会った。筑波大附属小学校へと進み、その後も同附属中学校、同附属高校と進学。サッカーは部活動ではなく、クラブチームでプレーしていた。小学校時代に横浜バディーSC(現バディーSC)、中学ではBANFF横浜ベイ(現BANFF横浜FC戸塚)に籍を置き、高校時代は横河武蔵野FCユース(現東京武蔵野FC)でクラブユース選手権にも出場している。
現在30歳の添田は1993年3月の早生まれで、学年的には“プラチナ世代”と呼ばれた1992年組の1人だ。クラブチーム時代から高木三兄弟の1人である高木善朗(現アルビレックス新潟)や横浜マリノスユース出身の小野裕二(現サガン鳥栖)といった選手とは対戦経験があったという。
そんなふうに学生時代からレベルの高い環境に身を置いてきた。しかし、添田はチーム内でも目立つ存在では決してなかった。中学生の頃までは「プロになりたい」という夢を抱いていたが、少しずつ大人に近づいていくなかで嫌でも“現実”は見えてくる。
「マリノスジュニアユースやマリノスユースのようなチームと対戦し、のちにプロで活躍するような凄い人たちと一緒にプレーをさせてもらっていました。そのなかで私は横河武蔵野FCユースの中でも当たり前に試合に出られるような選手ではなく、ハードワークをして必死に汗をかかなければ出番を得ることができない立場でした。当時からサッカー界での自分の立ち位置は嫌でも理解させられました。中学ぐらいまでは漠然とサッカー選手になりたいという思いはありましたけど、それも徐々に難しいんじゃないかと思うようになっていきました」
高校を卒業すると、添田は厳しい受験を経て東京大学へと進学した。東大ではア式蹴球部に入部し、4年時には主将も務めた。サッカーは続けたが、プロになることは頭になく、本格的にサッカーに取り組むのは大学が最後だと考えていた。3年生になると就職活動を始め、三井物産からの内定を勝ち取っていた。
「人生で一番悩んだ2週間」 東大→Jリーガーは人生最大の転機
だが、人生何が起こるか分からない。当時J3の藤枝MYFCから練習参加の話が舞い込んできたのは、大学卒業を間近に控えた大学4年生の12月だった。
当時、東大でヘッドコーチを務めていた林健太郎氏から連絡を受けた添田は藤枝MYFCへの練習参加を決意する。その理由はプロを諦められない気持ちというよりは、純粋な好奇心だった。
「本当に失礼な話ですけど、就職も決まっていたなかで、(J3のレベルが)どのようなものなのだろうという好奇心も手伝って練習に参加させてもらいました」
練習参加のあとには当時の藤枝MYFCの社長であり、現在はおこしやす京都の親会社であるスポーツX株式会社の社長である小山淳氏と面談を行った。添田は選手としてプレーしながら社員としても働く“選手兼社員”での加入を打診された。思いがけない展開だった。結論を出すまでに2週間の期限が与えられた。
「さすがに人生で一番考えた2週間だったと思います。かたや年収何千万円も目指せる大企業。かたや当時の自分にとっては一寸先にはどうなるのか分からない世界でしたから。だいぶ悩みましたけど、自分のサッカー選手としての伸びしろがどのくらいあるのかに興味があり、そこに挑戦したいという思いが一番にあって、選手としての道を選びました。本当に迷っていて、期限最終日の23時58分頃まで考えていました(笑)。このJリーガーになるという決断は、自分の人生にとって最も大きなターニングポイントだったと思います」
「最後の最後で一歩を踏み出すことができたキャリアだった」
悩んだ末、アマチュア契約とはいえJリーガーとなる道を選んだ添田。藤枝MYFCでは午前中に選手としてトレーニングに励み、午後には社員として働いた。17年8月におこしやす京都の前身である関西1部リーグのアミティエSC京都に移籍し、同様に選手兼社員としてプレーしたあと、同年12月に現役を引退した。
J3でのリーグ戦出場は2015年シーズンの8試合と17年シーズンの2試合の計10試合だった。添田は「レベルの部分でいうとやっぱり自分が一番下手で、一番下からのスタートだったなと思います。初めから厳しいだろうなというところは想定していたので、そういう意味ではイメージ通りだったなと思います」とJリーガーとしての生活を振り返る。東大ア式蹴球部ではキャプテンも務めたが、J3ではレベルの高さを痛感する日々だった。
添田には東大を卒業してJリーガーになる以前にも、サッカー選手として転機となりうるタイミングはあった。より高いレベルでサッカーをすることだけを考えれば、高校や大学で別の学校へ進む選択肢も存在していた。それなのにどこかで気持ちにブレーキをかけ、サッカーに振り切る選択をできずにいた。東大から藤枝MYFCに加入した決断は、添田にとって“三度目の正直”だった。
「自分でも結果的に変わっているというか、珍しいキャリアを歩むことになったと思います。関心を持ってもらえるという意味ではすごくありがたいことです。そのなかで、サッカーで大きなチャレンジをしたいという思いはずっと持っていました。ですが、結果的にそれを選ぶことはしてこなかった。過去2回、具体的に言えば、高校と大学の時にタイミングはあったと思います。高校の時にはコーチのつながりで選手権常連の強豪高校のセレクションを受けさせてもらいましたし、大学もサッカーのレベルだけを考えれば早稲田や慶應に進むことも選択肢にはありました。東大からJリーガーになった時、最後の最後で自分が本当にチャレンジしてみたかった方向に進むことができたという感覚でした。なんというか、最後の最後でようやく一歩を踏み出すことができたキャリアだったんだなと感じています」
東大卒Jリーガーとしての異色のキャリアが注目を集めた添田。選手として大きな成功を遂げたわけではなかったが、サッカーに真摯に向き合った時間は嘘をつかなかった。前例のない新しい道を切り開いた自らの決断に後悔はしていない。選手としてのかけがえのない経験は、クラブチームの代表となった今のキャリアにも生かされているのだから――。
(文中敬称略)
[プロフィール]
添田隆司(そえだ・たかし)/1993年3月15日生まれ、東京都出身。筑波大学附属高―東京大―藤枝MYFC―アミティエSC京都。2015年、史上2人目の東大出身Jリーガーとして藤枝MYFCに加入。現役時代は主にサイドハーフとしてプレーし、J3通算10試合に出場した。17年12月に24歳の若さで現役引退を決断。スポーツX株式会社の取締役(現任)を経て、18年12月からおこしやす京都AC株式会社の代表取締役社長を務める。
(石川 遼 / Ryo Ishikawa)