森保監督の厳しさやこだわりの原点は? 実弟明かす素顔、母親との“共通点”【コラム】
「温厚」「冷静」「誠実」「地味」のイメージは正しい?
今さらながら、森保一監督とはどういう人物なのか。昔のエピソードを探っていたら面白い話が出てきたので紹介したい。
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まず、森保監督のイメージと言えば、「温厚」「冷静」「誠実」「地味」などということで間違いないだろう。日本のサッカーシーンでのデビューも、決して華々しいとは言えないものだった。
高校は長崎の長崎日大高だったが、当時の長崎は島原商業高、平戸高、国見高が群雄割拠。全国大会に出場することはできなかった。
1987年、サンフレッチェ広島の前身であるマツダに入社。最初の2年は出番がなく、ようやくプレー機会を与えられた3年目、チームは日本サッカーリーグ(JSL)2部に所属していた。1990-91シーズンで昇格を果たしたものの、1991-92シーズンはプロ夜明け前に一足早く強化に乗り出していた読売クラブ、日産自動車が覇権争いを繰り広げており、マツダは中位チームという位置づけだった。
1992年4月にハンス・オフト監督が日本代表監督に就任すると、1987年のマツダ監督時代に指導していた森保選手を招集する。だが、日本代表選手の中でも知られておらず、シューズに「森」「保一」と間が空いて書かれていたため、「モリ・ヤスイチ」だと思われたというエピソードが残っている。
日本代表ではトップ下を務めるラモス瑠偉のところからこぼれてくるボールをすべてカバーし続ける。積極的に攻撃参加して、というタイプではなく、ほかの選手に気を配りながらバランスを保ち続けていた。
Jリーグ発足後は風間八宏とダブルボランチを組んだ1994年にサントリーシリーズでステージ優勝を果たす。だが現役時代のタイトルはそこまで。2003年にベガルタ仙台で引退するが、優勝争いには絡めなかった。
仙台の監督だった清水秀彦氏は森保選手が「きっと監督になるだろう」と思い、メンバーから外れている試合では上の観客席から観察させて俯瞰する能力を身につけさせたという。そしてその考え通り、引退後は指導者の道を歩き始めたが、その歩みも決して駆け足ではなかった。
弟が泣くまでサッカーでひたすら1対1
2004年にはS級コーチライセンスを取得したものの、最初からトップチームのコーチや監督を任されたのではない。強化部育成コーチとしてアンダーカテゴリーのチームを担当した。2007年からやっと広島のトップチームのコーチ、2010年〜2011年はアルビレックス新潟にヘッドーコーチを務め、2012年にやっと広島の監督に就任したのだ。
こんな経歴を送ってきた人物が「驕り高ぶる」など考えられないだろう。日本代表の監督に就任したあとも、ファンやメディアに対する態度は丁寧だ。選手への指導も、時に大声でダメ出しすることはあっても、いつも優しい言葉を使って指示している。
故イビチャ・オシム監督は日本代表監督の時、スタッフに練習の順番を明かさず、コーチはトレーニングに向かうバスの中で憂鬱だったこともあるという。森保監督はコーチへの信頼を前面に出し、特に2022年のカタール・ワールドカップ(W杯)後は一歩引いたところから練習を見守っている。
だが、そこはやはり人間だ。時に苛立ちを見せることもある。毎回同じような質問をされたときは珍しく回答を短く切り上げたり、記者会見で選ばれなかった選手についてのことを聞かれると、「誰を入れれば良かったという意見は、誰を外して入れるのか一緒に考えてほしい」と切り返したりしたこともあった。
そんな姿に、もしかすると幼少の頃の森保一少年は別の一面を持っていたのではないかと考えた。長男として生まれた森保監督には、年子の妹、そして3学年離れた弟がいる。その現在はV・ファーレン長崎アカデミーの「ヘッドオブコーチング」を務める森保洋氏は、兄弟ならではという関係を語ってくれた。
「兄がサッカーを始めるまで、森保家は野球一家だったんですよ。だからキャッチボールをするんですけど、兄が5年生でピッチャー、僕が2年生でキャッチャーなんです。思いっきり投げてくるんですよ。それで僕が痛そうな顔をしていると、ニヤリって嬉しがって(笑)。サッカーを始めてからは1対1なんですけど、いつもあっちが攻撃側で僕は守備です。僕が泣くまでやっていて、遊びであっても厳しさやこだわりがあり、徹底されていました」
実弟・洋氏は「僕から見ると普通の兄」と笑顔
そう言えば、最近報道陣からの質問に対して「あなたはどう考えますか?」「答えも一緒に言っていただいてありがとうございます」と、鋭くえぐってくる答えを返すこともある。あれは幼い頃の森保監督の厳しさが出てきているのか。いや、本当は子供ながらの残酷さは、森保監督も十分に持ち合わせていたということだろう。
「僕から見ると普通の兄です。広島の監督になった時も、日本代表に入った時も何か生活や雰囲気が変わるとかまったくなかったですね」
洋氏がまだ「W杯がどれだけ凄いのか理解できていなかった」という「ドーハの悲劇」のあとも態度は変わらなかったそうだ。ただし、「ドーハの悲劇」の話は、弟に対してもしていない。
現在はお互いに指導者ということで、兄からのアドバイスもあるという。もっとも弟だからと押し付けることなく、自分の経験談を伝えているそうだ。
兄弟のエピソードを聞いても、やはり昔から森保監督は大人しい人物だったのではないだろうかと思える。すると、洋氏は笑って語った。
「うちは母親がはっきりと意見を言うタイプなんです。だから兄もずっとそうでした。最初に社会人をやった経験が大きかったと思いますね。あそこで性格が円くなったと思います」
森保監督の懐が深いのは間違いない。そうでなければSNSのさまざまな声に突っかかりたくなるのが本当だろう。さまざまな意見に対して冷静に判断できる力は桁違いだ。
だが話を聞いていると、どうやらちょっと怖い面もあるようだ。そう言えば、このコラムで書いたことにちょっと引っかけて「すみませんね、話が長くて」などと言われたこともあった。もしかして今回のこの話も……と思うと、このへんで今回は終わりにしたい。
(森雅史 / Masafumi Mori)
森 雅史
もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。