なぜ副審として走り続けるのか 八木あかねが追求する「無私」のメンタリティー

「走れる限りは審判員を続けていきたい」と意欲

 一方で、八木にとって手ごたえのあった好ジャッジや印象深い試合はどれか。「ゲーム全体がすごく楽しかった」と語るのは、2008年のJ1最終節でジェフユナイテッド千葉がFC東京戦で残留を決めた一戦だ。「前半0-2で負けていたところから、後半(29分から11分間で)4ゴール。他会場の結果もあいまって奇跡の残留を果たしたあのゲームはよく覚えています」と振り返る。

 また、2003年9月13日に札幌厚別公園競技場で行われたJ2リーグ第33節のコンサドーレ札幌対水戸ホーリーホック戦は、“ミスジャッジ疑惑”から晴れて“好ジャッジ”となった試合として、八木の心に刻まれている。

「札幌が得点したシーンで、サポーターさえも『完璧なオフサイドなのに、なんでこれがゴールになるの?』というような状況で、ゴールを決めた選手もシュートをためらうような感じでした。当時のJ2は、今よりテレビ放送が少なく、すぐに答えも出ず。水戸は試合後、副審の明らかなミスで試合が決まってしまい、この結果は不当だと意見書を提出したこともあって、とんでもないことをしてしまったとショックでした。

 その数日後、日産スタジアム(横浜Fマリノス対清水エスパルス)で第2副審担当だったんですが、札幌からの飛行機で落ち込みながら先輩に『僕、次の試合やっちゃダメですよね』『JFA(日本サッカー協会)から割り当て外すって連絡が来ますよね?』と言っていました(苦笑)。現場では自分が絶対に正しいと思っていましたけど、それを(ビデオで確認した人たちから)完全に否定されて、次はどんなモノサシで見ればいいんだろうというのが分からなくなってしまい、本当は逃げ出したかった。日産スタジアムでの試合が怖くなっていたなか、入場直前にJリーグの女性職員の方が、『あかねちゃん。頑張ってね。そういえば、札幌対水戸の試合見たよ』と。一言目に『すみません』と謝ったら、『なんで謝るの? 運営部みんなであかねちゃんナイスジャッジって拍手を送ってたよ。正しいジャッジだったやん』と言ってくださいました。のちのちビデオを見た時には正しいジャッジだったと分かったんですが、あの入場する時ほど、嬉しい気持ち、高揚感はなかったですね」

 審判員を務めて来たなかで、八木が大切にしてきたのが、父親との会話で言われた「審判は無私(私心のないこと)の存在だ」という言葉だ。

「僕はただのサッカー好きの審判をしている人間で、『無私の存在』はいい言葉だと思います。やりたい試合はあるけど、それをできるかは自分では決められないし、主審をしたくても副審をしたり、その試合に関わる立場も自分では決められない。それを理解して、受け入れて、でも最善を尽くす。『私』はすべて消さないといけないんだな、と。人々は八木あかねに期待しているのではなく、あくまで副審に期待している。そのなかで、当然ながら自分の『我』も出るわけで、そこのバランスを保つのが楽しいんでしょうね。走れる限り、自分の技術が錆びついたと思わない限りは、(審判員を)続けていきたいと思います」

 八木は「無私」の境地を追い求めながら、今日もタッチライン際を全力で駆け抜ける。

(文中敬称略)

[プロフィール]
八木あかね(やぎ・あかね)/1974年1月14日生まれ、大阪府出身。高校卒業後、「Jリーグ審判養成コース」合格を経て、2000年にサッカー1級審判員へ。09~19年は国際副審、14~19年はプロフェッショナルレフェリー(PAR)としても活躍した。これまでJ1通算277試合、J2通算178試合、J3通算4試合、リーグカップ通算61試合を副審として担当。2002年からはフットサル審判員との“二刀流”でピッチを所狭と駆け回る。

(FOOTBALL ZONE編集部・小田智史 / Tomofumi Oda)



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