「僕と妻が愛して止まない国」 C大阪伝説の元ブラジル代表GKが日本に惹かれたワケ

1995年から3年間、C大阪で守護神としてプレーしたジルマール【写真:Getty Images】
1995年から3年間、C大阪で守護神としてプレーしたジルマール【写真:Getty Images】

【あのブラジル人元Jリーガーは今?】ジルマール(元C大阪):前編――Jリーグに参入したクラブにプロ意識を注入

 1995年、JFLからJリーグに参入したばかりのセレッソ大阪に、ブラジル代表、しかも前年のアメリカ・ワールドカップ(W杯)優勝メンバーだったジルマールがやって来たのは、当時大きな話題となった。GKとして活躍する一方で、チームにプロ意識を植え付けた守護神は、1997年に現役引退してからもなお、セレッソとJリーグを支え続けた。

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「僕はサッカー選手としての現役時代を、セレッソ大阪で終えたんだ。そして、引退したあとも、幸せなことにセレッソや日本と長年関わることができた」

 ジルマールの第2の人生は、ブラジルと日本、そして世界サッカーの真っ只中で、ハードに、かつノンストップで走り続ける日々だった。

 ブラジルに帰国した後、まずはブラジル代表ザガロ監督に要請され、1998年のフランスW杯でアシスタントコーチを務めた。大会後は古巣フラメンゴのディレクターに就任。当時、ビッグタイトルから遠ざかっていたクラブを、大胆に改革する人物が必要とされていたのだ。

「1年半をかけて、やるべきことを全部やった。そのために多くの人と喧嘩もしたし、あのロマーリオをはじめ、数人のスター選手との契約破棄も断行した」

 そうやって進めた世代交代により、若手主体となったチームは、当時の南米第2の大会コパ・メルコスウはじめ、1年で2冠を達成するまでになった。

「それを見届けて、フラメンゴを去った。少し“ツカレタ”からね。その後はしばらくヨーロッパで、ACミラン、インテル・ミラノ、パルマ、バルセロナ、レアル・マドリードなどを訪ね、どんな風にクラブの運営管理が行われているのかを見せてもらったりした」

 その経験を経て、彼はサッカー選手の代理人に転身。当時の制度だった資格試験を受け、ブラジル人としては13人目のFIFA(国際サッカー連盟)公認代理人となった。

「代理人の仕事は11年間やった。その間に、セレッソとの関係が本格的に復活したんだ。チームが(2002年に)J2へ降格したことによって、クラブのトップパートナーである日本ハムの社長が、僕の意見を聞きたいと、日本に呼んでくれてね。

 思い出すのは、会議後の夕食でのこと。彼が『あなたは非常に厳しいことを言うんだね』と言ったんだ。それで、僕はこう答えた。『社長、あなたが呼んでくれたからには、そして、僕もブラジルから空路24時間以上をかけて来たからには、耳触りのいいことを言っていても仕方がない。本当のことを言うために来たんだ』とね」

藤原清美

ふじわら・きよみ/2001年にリオデジャネイロへ拠点を移し、スポーツやドキュメンタリー、紀行などの分野で取材活動。特に、サッカーではブラジル代表チームや選手の取材で世界中を飛び回り、日本とブラジル両国のテレビ・執筆などで活躍している。ワールドカップ6大会取材。著書に『セレソン 人生の勝者たち 「最強集団」から学ぶ15の言葉』(ソル・メディア)『感動!ブラジルサッカー』(講談社現代新書)。YouTubeチャンネル『Planeta Kiyomi』も運営中。

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