31歳で突如引退→監督就任「強く説得されて」 無資格で名門指揮官へ…重鎮が迫った「お前には責任がある」

Honda FC監督就任の経緯
今季からジュビロ磐田U-21監督兼U-18監督を務める安間貴義氏は現役時代、本田技研工業サッカー部でプロ契約を結びプレーした。当時はJリーグ開幕を控えた1990年代初頭。なぜ、華やかな舞台を選ばなかったのか。“らしい”決断が、後の指導者キャリア、そして数奇な運命へとつながっていく。(取材・文=いしかわごう/全7回の2回目)
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アジア最強のジュビロ磐田を相手に、試行錯誤を繰り返していた安間貴義だが、そもそも彼が指導者の道を歩み始めたこと自体、数奇な運命の悪戯によるものだった。知られざる現役時代に迫った。
1990年代初頭、日本サッカー界は変革期を迎えている。1993年のJリーグ開幕を控え、全国の大学生や実業団の有望株たちのもとには、魅力的なオファーが届いていた。
駒澤大学でプレーし、2年連続関東選抜に入っていた安間もまた例外ではなかった。主戦場は中盤だったが、ポジションは万能型。「ゴールキーパー以外ならなんでもできた」と本人は振り返る。大学にはセンターバックとして入部したが、ボランチを務めた時には前線で決定機を演出する。その卓越した戦術眼と確かな技術はスカウト陣の興味を引くものだった。
しかし、安間が選んだのはJリーグの華やかな舞台ではなく、生まれ育った浜松市の名門・本田技研工業サッカー部だった。その経緯が実に安間らしい。
「僕の友人が『本田を受ける』って言い出したんです。当時、あの辺の土地はまだ開けてなくて、友人が『行き方がよく分からないから一緒についてきてくれ』って言うからついて行ったら、なぜか自分も受けることになって、入ることになってた(笑)」
1992年、安間は本田技研の門を叩いた。それは実業団の会社員選手としてではなく、最初から「プロ契約」を結んでの加入だった。
「最初からプロ契約で入ったから、どこでやってもプロはプロ、という感覚でしたね。地元だし、小さい頃からずっと見ていた憧れのチームだったから、文句もなかった」
翌93年、Jリーグが開幕し、空前のサッカーブームが起きていた。カズ(三浦知良)やラモス瑠偉が時代の寵児となり、スタジアムは熱狂の坩堝と化した。だが、安間はその狂騒を極めて冷静に見つめていた。
「今までプロがなかった国にプロチームができるんだから、すごいこと。だけど、みんなが思っていたのは『これ、一体いつまで続くんだろうか』ってことだったと思う。自分も割と客観的に見ていましたね。別世界というか、Jリーグは『見るもの』だと思っていました」
JFLでは3度の優勝に貢献した。ベストイレブンにも4度選出されるなど、安間はピッチ上で頭抜けた実力を証明し続けた。現行のJFLとなった1999年には初代MVPを受賞。シーズンオフになれば、アビスパ福岡、セレッソ大阪など、Jリーグのクラブから毎シーズンのように誘いが舞い込んだそうだが、安間の心が揺らぐことはなかった。
「今振り返ると、毎年声をかけてもらいましたね。でも、『どこでやってもプロじゃん』って思っていました。小さい頃から育った好きな土地で、大好きなサッカーをやれている。それで十分に幸せでしたから」
そんな現役生活は、本社の経営方針という抗えない力によって突然の幕切れを迎える。
1997年を境にプロ契約選手は減り、選手全員がホンダの社員となるアマチュアチームに徐々に移行し始めていたのだ。そして2002年からは選手とのプロ契約を行わず、安間は31歳で現役引退となる。同時に届いたのが、監督就任の要請だった。
「名門だからチーム自体は強いわけですよ。OBも多いし、中途半端な成績だと文句を言われるから監督をやりたい人がいなくて……僕に話が来ました(笑)」
指導者になる意思などなかったので、指導者ライセンスも持っていない。だから、一度は断ったという。しかしそこに現れたのが、中山雅史、長澤徹(現・湘南ベルマーレ監督)、浜野征哉(現・FC町田ゼルビアGKコーチ)といった地元の重鎮たちだった。
「あのメンバーに囲まれたら断れないじゃないですか。『お前にはホンダでやらなきゃいけない責任がある』と強く説得されて、『何の責任?』って思ったけど、『……はい!』って答えるしかなかった(笑)」
自らの強い意思ではなく、周囲の説得に流されるようにして始まった指導者人生。だが、そんな思いがけない一歩から、安間の運命が大きく動き始めていく。
なお当時はJFA公認ライセンスの資格の有無が、今ほど厳密ではなかった。当時は現在ほどライセンス要件が厳格ではなく、将来的な取得を前提に、特例として指揮が認められていたという。
安間はHonda FC就任1年目の2002年からJFL優勝を果たしている。03と04年は、Jリーグ入りを目指す大塚製薬(現・徳島ヴォルティス)に及ばずに2位に終わったが、手探りで始まった指導者生活に楽しみも見出すようになっていた。
「選手が変わってくるのが面白いですね。例えばJFLで優勝するじゃないですか。じゃあ当時のJFLで優勝したことによって何があったかというと、Jリーグに比べると何もないんです。だけど、そこに至るまでに関わってくれた人や選手が、すごくいい表情するじゃないですか。それがすごく好きですね。僕の価値観はそこにあります」
2004年の秋、会社からシーズン後の退任を告げられている。成績とは関係なく、会社の方針により監督やコーチも社員化する決定となったのだ。プロ契約だった安間に、会社に残る選択肢はなかった。
こうして13年にわたって在籍したHondaを退任した。その翌2005年、安間はJ2ヴァンフォーレ甲府のコーチに就任。そこで待っていたのは、大木武との出会いだった。ここからJリーグを舞台にした指導者キャリアが始まっていくこととなる。(文中敬称略、第3回に続く)
(いしかわごう / Go Ishikawa)

いしかわごう
いしかわ・ごう/北海道出身。大学卒業後、スカパー!の番組スタッフを経て、サッカー専門新聞『EL GOLAZO』の担当記者として活動。現在はフリーランスとして川崎フロンターレを取材し、専門誌を中心に寄稿。著書に『将棋でサッカーが面白くなる本』(朝日新聞出版)、『川崎フロンターレあるある』(TOブックス)など。将棋はアマ三段(日本将棋連盟三段免状所有)。


















