「うるさいオッサンと思われても…」 30代で芽生えた“自覚”…引退後に灯った指導者への意欲

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:玉田圭司(名古屋グランパスコーチ)第4回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。キャリアで最も長く、多くの試合に出場した名古屋グランパスでの日々は、玉田圭司に多くの気づきを与えた。サッカーに対する視野が広がり、ストライカーとしての役割から徐々に脱却。そこで生まれた変化が、41歳までピッチに立ち続ける土台になった(取材・文=二宮寿朗/全5回の4回目)
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キャリアを積み上げて年齢を重ねるとともに、プレースタイルが変わっていくのは自然な流れである。視野が広がり、サッカーへの理解が深まっていくと、玉田圭司もストライカーの役割にとどまらなくなっていた。
2006年に移籍した名古屋グランパス時代にだんだんとその色を強めていき、30歳で初めてリーグ優勝を経験する2010年シーズンでは攻撃全体を司るほどの存在感があった。
玉田は言う。
「柏レイソルの時は、周りが支えてくれて“俺らが守るから、お前は点を獲ってこい”という感じで、好きなようにやらせてもらったし、守備もそこまでやらなかった。だけどグランパスに来て、日本代表で経験も持っている自分が好きなことだけやるわけにはいかないなって思ったんです。チャンスメイクも守備も、周りと連係しながらやらないといけないし、より頭を使ってサッカーをするようになりました。これまでどれだけ俺、子供だったんだろうって思いましたよ(笑)。確かにプレースタイルが変わって、FWだけどより中盤に近い選手になっていきましたね」
思考の深化とプレースタイルの変化によって、玉田は息の長いフットボーラーとなっていく。2014年シーズン限りで9年間在籍したグランパスと契約満了となったが、当時J2だったセレッソ大阪に移籍して、ホーム開幕戦となった大宮アルディージャ戦では挨拶代わりとばかりに2ゴールを挙げる。
「チームには(ディエゴ・)フォルランや(山口)蛍、関口(訓充)といったいい選手が集まっていて、やっていてもすごく楽しかった。サッカーをやれる喜びを感じながらプレーできていました」
35歳になってもサッカーを楽しもうとする気持ちはまったく薄れない。もっとうまくなろうとするベテランがいた。
セレッソ1年目は2ケタゴールを挙げ、2年目にはJ1昇格に貢献。その年のオフにはグランパスから復帰のオファーが届く。満了となったベテランが、復活を遂げて古巣から声がかかるのはなかなかのレアケースである。
基本技術を大事にする風間八宏監督のもと、テクニックをもう一度磨き上げた。「どうやればいいかは、タマを見てみろ」と指揮官もお墨付きを与え、手本ともなっていく。
「チームが勝つためにはどうすればいいのかを、とにかく考えるようになりました。いろんな選手がうまくやるためには自分は何ができるんだろうって。周りを輝かせたうえで自分が輝く。そうしたいと思いました」
2列目で起用されることが多く、サポート役も厭わない。体を張って、空いたスペースをしっかりカバーしていく。オフ・ザ・ボールで汗かき役ともなるベテランの姿は、チームメイトを鼓舞した。周りを輝かせるだけでなく、自分も輝こうとする。それが玉田のプライドでもあった。戦いをJ2の場に移したグランパスを助け、1年での返り咲きに彼は欠かせなかった。
「海外のサッカーを見るにしても、昔は点を獲る選手ばかり目を追っていました。でも次第に2列目やボランチの選手を見るようになって、自分でも取り入れて練習で試したりして。それがうまくいくと、今度は何をやってみようか、次はどんな選手のプレーを取り入れてみようかってどんどんハマっていきましたね。
と同時に、サッカーって深いスポーツだなってより思うようになりましたよ。あの頃は特に(ルカ・)モドリッチを見ていましたよね。あんなにうまいのに、こんなにハードワークするんだって。それにボランチの選手を追うようになって、陰で支える選手がこれほど大事なんだなともあらためて気づかされました。レイソルの時、明神(智和)さんと一緒にプレーしましたけど、こう考えてプレーしていたんだなって」
41歳で現役引退を決断「指導者になると決めていた」
どこまでも追求したくなる。グランパスで2年プレーした後、熱いラブコールを受けて当時J2のV・ファーレン長崎へ。後輩に対しても、気がついたことはズバズバ言うようにした。「嫌われたって構わないし、うるさいオッサンだなと思われたって全然いい。一言が(心に)響いてくれたり、ムカついてでも残ってくれたら、それだけでいい」と、チームが良くなるためにと行動した。活気がないチームは強くならないことを経験している。「うるさいオッサン」を喜んで買って出た。
チームのことを考えすぎて「しんどい」と思ったこともあったという。それでもサッカーに向き合える日々は、玉田にとっては幸せな時間でしかなかった。
V・ファーレンでは3シーズンにわたってプレーし、41歳だった2021年シーズンを最後にスパイクを脱ぐ決心を固める。ラストシーズンも19試合2ゴールを挙げており、まだまだ体も動いていたが、惜しまれている今が辞め時と決断に至った。
サッカーの深淵に触れていくなかで、指導者になることは自然の流れでもあった。
「サッカーは頭でするものなんだって思うようになってから、いろんな監督さんのもとでプレーしていくなかで指導者って面白い、指導者をやってみたいという気持ちは膨らんでいったのかなとは感じます。ああ、なるほどなって思ったことはたくさんあったし、逆に自分だったらこうするかなと思ったこともあった。いろんな監督さんと一緒にやることで違う視点を持てたことも大きい。
引退を決めた時には、指導者になると決めていました。どこから始めればいいのかなと思って周りにも相談してみたんです。まずは育成年代を教えていくといいんじゃないかと聞いて、また違う視点を持つということでも確かにそうかもなとは思いました」
指導者人生のスタートにあたり、思いがけないオファーが届くことになる。(文中敬称略/第5回へ続く)
■玉田圭司 / Keiji Tamada
1980年4月11日生まれ、千葉県出身。習志野高から99年に柏レイソルに加入し、1年目からプロデビューを果たす。2002年の2ndステージからレギュラーの座を掴んで3得点を挙げると、翌02年には28試合出場11得点と一気にブレイク。06年には名古屋グランパスに移籍し、10年のリーグ初優勝に貢献した。その後はセレッソ大阪、名古屋復帰を経て、19年にV・ファーレン長崎へ。21年に現役引退を発表した。日本代表にはジーコ監督時代の04年にデビューし、同年のアジアカップでチーム最多の3得点を挙げ、優勝に貢献。06年のドイツW杯にも出場し、第3戦のブラジル戦でゴールを決めている。引退後は指導者に転身し、昌平高のコーチを経て監督に就任。同校をインターハイ優勝に導き、25年からは古巣・名古屋のコーチに就任した。
(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。














