人口4万5000人の町にブラジル代表が「最初に勝負に出た」 地方のハンディ覆した“勝利の好循環”

かつて鹿島でプレーした柳沢敦【写真:アフロ】
かつて鹿島でプレーした柳沢敦【写真:アフロ】

鹿島アントラーズは地方のハンディを覆した

 鹿島アントラーズの強化責任者として、四半世紀以上にわたりクラブのフットボール部門を率いた鈴木満氏。Jリーグ開幕当初から、地方クラブ特有の地理的ハンディや人口規模の劣勢をどのように克服するか、そのサバイバルの歴史をフロントの最前線で見続けてきた。歴代社長とともに「勝利によるブランド化」を断行し、常勝軍団をゼロから築き上げた“生き字引”と共に、鹿島の歴史を振り返った。(取材・文=森雅史/全5回の5回目)

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 Jリーグ開幕当初、日本フットボール界の勢力図は、大都会を本拠地とするヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)や横浜マリノス(現横浜F・マリノス)といったメガクラブを中心に回っていた。

 地方の一企業チームに過ぎなかった住友金属を前身とする鹿島アントラーズは、地理的にも、人口規模の面でも、圧倒的な劣勢に立たされていたのである。しかし、なぜ彼らは日本を代表する名手たちを惹きつけ、日本一の常勝軍団を築くことができたのか。

「Jリーグが開幕した当時は、選手たちが行きたいのはヴェルディとマリノスでしたね。だから選手を取りにスカウトが行っても、みんなその2強に負けるんですよ。じゃあどうやればスカウトで勝てるようになるかというと、優勝ですよ。その2チームに勝たなければいけない」

 当時の鹿島町(現・鹿嶋市)の人口はわずか4万5000人程度。プロスポーツの興行が成立するとは到底思えない場所であった。スカウト陣がどれほど有望な若手に声をかけても、本人や家族から「そんな東京から離れたところには行きたくない」と拒絶される日々が続いた。都市格差、そして限られた人口分母という二つの巨大なハンディが、重くのしかかっていた。

「やっぱりうちは地域的なハンディがありました。だからプロになる時に危惧したことが2つあります。一つは集客できるかどうか。人口の母体が少ない場所で興行が成り立つのかという心配です。もう一つは、この分母が限られた中で育成できるのかという懸念です。東京や他の大都会だったら、スタジアムへのアクセスもしっかりしているし、人口も多い。そこから試合に人を集められるし、選手も選んで、育てることができる。そこにハンディがありました。この2つをどうやって解消しようかと考えながらやって来ました」

 この状況を打破するために、当時のクラブ経営陣と鈴木氏が出した結論は、「勝利によるブランド化」という極めてシンプルな、しかし最も困難な道であった。大物のブラジル代表選手を補強し、とにかく勝利をもぎ取る。勝つことでしか、地方のクラブが生き残る道はなかった。

「当時の社長もハンディを克服するためにはヴェルディとマリノスに勝たなければいけないという方針でした。ブラジル代表選手などを補強しながら、勝たないとクラブは10年持たないというような危機感でずっとやってきましたね。1996年に初めてリーグ戦で優勝して、そこから選手が来てくれるようになったんです。もちろんそれまでもスカウトは頑張っていましたよ。高校で1番、2番というところを狙って取ってきた。そういうスカウトの功績と、勝たなければクラブが持たないという思いで勝った結果、選手が取れるようになったという部分もあります」

 1996年のJリーグ初優勝、そして同年に高校屈指のストライカーであった柳沢敦を獲得できたことが、クラブの歴史を決定づける転換点となった。「鹿島に行けば、厳しい環境のなかで揉まれて成長できる。そしてタイトルが獲れる」。この強固なイメージが、日本中の指導者や選手たちの間に定着していった。

「1993年のステージ優勝も大きかったですよ。でもやっぱりまだステージ優勝だけだし、やっぱり2大ビッグクラブはマリノス、ヴェルディでした。だから1996年に柳沢が入ってきてくれて、優勝もした。すると、あの当時は海外に行くよりも『強いチームに行きたい』という思いのある選手が多かったんで、選手が取れるようになった」

 そして鹿島は選手を獲得しただけではなかった。

「取ってきた選手を大事に育てて代表まで送り出した。すると学校の先生や父兄がそういう育成も評価もしてくれました。『鹿島に行けば育つし、勝てるし、日本代表にもなれる』と思ってもらえたんです。するとみんなますます鹿島に来てくれるようになった。そういう好循環ができたのは、やっぱり最初に勝負に出たっていうのが大きかったと思います」

 さらにチーム内の雰囲気も選手を育てるのに影響した。チームの中に必ず居場所があるのだ。

「鹿島にはおとなしい選手や個性的な選手がいますが、みんなどこかにちゃんと居場所を作ってあげられる。1人でいるのが好きな選手は1人でいていい、でも全体の枠にはちゃんと入れながらやってあげられる。それは鹿島の特徴だと思います」

 時代が変わり、若手の価値観が「国内での優勝」から「早期の海外移籍」へとシフトしたあとも、鹿島は立ち止まらなかった。アクセスの悪さや人口の少なさを、拠点の分散と育成組織の「量と質の拡充」でカバーする戦略へと舵を切ったのである。

「今は選手の海外志向があってどんどん抜けるのは仕方がない時代になりました。それでもやっぱり育成をちゃんとやって、自前の選手を育てるのが大切なんです。鹿島らしさやフィロソフィーを子供の頃から教えた選手のほうがすぐに活躍する。今、グラウンド環境をすごく整えて、ジュニアユース、ユースと強いチームが作れています。その前にはつくばとノルテという拠点を鹿島以外にも作ってエリアを広げていきました。そういう歴代社長の判断がすごく正しかったと思います。だから歴代社長は、みんな在任中にタイトルを取っているんです」

 環境の劣悪さを言い訳にせず、自らの手で勝利の果実をもぎ取ることでブランドを築き上げる。鹿島が名手を集め続けられた真の理由は、地方のハンディをエネルギーへと変換し続けた、歴代のフロントとスカウト陣の「覚悟の歴史」そのものに他ならない。

(森雅史 / Masafumi Mori)



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森 雅史

もり・まさふみ/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。

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