原動力は「ジーコに認められたい」 アジアカップ制覇でファミリーへ「一員だと思えた」

ジーコ氏とのエピソードを語った名古屋グランパスの玉田圭司コーチ【写真:近藤俊哉】
ジーコ氏とのエピソードを語った名古屋グランパスの玉田圭司コーチ【写真:近藤俊哉】

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:玉田圭司(名古屋グランパスコーチ)第2回

 日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。

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 FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。プロ入り後、ブラジルへの武者修行で反骨精神を培い、プロ4年目にはレギュラーに定着。日本代表にも選ばれ、玉田圭司は一気にステージを駆け上がっていく。アジアカップでの活躍を経て、当時の代表監督であるジーコとの間に生まれた絆は、W杯の舞台で“意地の一撃”にもつながっていった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の2回目)

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 玉田圭司は何かとブラジルには縁がある。

 習志野高を卒業してプロになった柏レイソルでは、1年目のシーズンを終えて2か月間ブラジルに武者修行に出た。サンパウロ州のクラブでサッカー漬けの日々を送るが、サッカー後進国からやってきた19歳はチームメイトから相手にもされなかった。

「ボール回しの練習でもとにかくパスが来ない。こっちを見もしないですからね(笑)。自分の隣に来たら、ジャポネーゼの横は嫌だとばかりに違うところに行く。それまでの自分にはあまりなかった反骨精神みたいなものはここで養われたのかなとは思います」

 名前さえ覚えてもらえないなか、それでも黙ってゴールやアシストで認めさせていくと「ケイジ」とファーストネームで呼ばれるようになった。

 学生時代、あれほど面白かったサッカーに対して、そう思えなくなっている自分がいた。プロ3年目までは出場機会も限られた。体が華奢だったため、フィジカルコーチに相談しながら筋トレを取り入れて体を大きく、そして強くした。体重を7、8キロ増やして、球際でも負けないプロ仕様の肉体をつくった。

「自分の持ち味であるスピードを落とさないよう、コーチに要望を出しながら体をつくっていきました。考えさせられることの多い時期ではあったし、遠回りだったかもしれないですけど、選手として長くプレーできたのもあの3年間があったから」

 いつ出番が来てもいいように、その準備だけはしていた。

 プロ4年目の2002年シーズン、2ndステージから就任したマルコ・アウレリオ監督に抜擢され、レギュラーに定着していく。J2降格の危機を乗り切り、翌03年シーズンにはチームトップとなる11ゴールを挙げてついにブレイクを果たす。

 この活躍に目を留めたのが日本代表を率いるジーコ監督であった。玉田は04年3月のドイツW杯アジア1次予選、アウェーのシンガポール代表戦でA代表デビューを飾ると、翌月の東欧遠征で代表初ゴールをマークした。

「アウレリオさんになって一気にレイソルの中心に入っていく感じがありました。ひょっとしたらブラジル人の感覚として、僕みたいなちょっとストリートサッカーみたいなリズムを持った選手を面白いと思ってくれたのかもしれない。チームにはブラジル人選手が多くいたんですけど、サッカーをやっていても波長が合う気はしました。アウレリオさんが同じブラジル人のジーコさんに、(日本代表入りを)推薦してくれたんじゃないですかね」

ジーコの期待に応えたバーレーン戦の2ゴール

 玉田がその名を轟かせることになるのが、中国で開催された2004年のアジアカップである。反日感情の高まりによってどの試合も日本へのブーイングが吹き荒れるなか、玉田は鈴木隆行との2トップで奮闘する。しかしながらヨルダン代表との準々決勝までゴールを奪えてはいなかった。

「代表に入って2、3試合こなして、すぐアジアカップでした。アンダー世代の代表にも入っていなかったし、海外のチームと戦う免疫がなくて、感覚をつかむまで少し時間はかかったし、緊張もあったとは思います。

 ジーコさんが信頼して自分を使ってくれる以上、その期待には絶対に応えたいという思いはありました。ジーコさんの現役時代のプレーはあまり見たことがないけど、“白いペレ”と呼ばれて偉大すぎるブラジルの英雄だというのはもちろん知っていました。包容力みたいなものをすごく感じたし、この人に認められたいという思いも強かったですね」

 控えに回っていた先輩の三浦淳寛からは「FWなんだから試合のうちで1点決めちゃえばいいんだよ」と言われ、肩の力がふっと抜けた気がした。

 バーレーン代表との準決勝。後半10分に左サイドからニアを射抜くゴールで今大会初得点をマークするも、打ち合いとなったゲームは3-3で延長戦に入る。延長後半、今度は後方からのフィードを受け取って相手3人を振り切って死闘に終止符を打つゴールを決めた。ジーコの期待に最高の結果で応えてみせた。

 真夏の高温多湿で、かつ連戦となればコンディションが落ちてきてもおかしくない。だが玉田はむしろ逆で、どんな環境下でも試合のたびに調子を上げていくことができるタフな一面があった。

「集団生活で大会に入っていくと、100%集中できるんですよね。練習以外は休む時間もあってすべて管理してもらえるから、自分のなかのルーティンができていくとどんどんコンディションが良くなっていくというのはこの大会での発見でした」

 あのバーレーン戦、延長後半でも体がよく動いていた。疲れていたのはむしろ相手のほうで、だから3人を一気に振り切ることができた。玉田はその疲れも見せず、中国代表との決勝戦でもゴールを奪って2連覇に貢献している。

 ジーコ監督に認められたい――。

 それは玉田の変わらぬモチベーションになっていく。2005年シーズン、レイソルが残留争いに巻き込まれるなか、右足第5中足骨にヒビが入っていることが判明する。無理を押して出場していたが、代表合宿時に指揮官から呼ばれた。

「折れている選手を起用することはできない。早く治してファミリーに戻ってきてほしい」

 この一言で玉田は手術を決断する。もし決断が遅れて悪化する事態になっていたら、ドイツW杯に間に合わない可能性もあった。

「ジーコさんから『戻ってきてほしい』と言われたのはうれしかった。自分もファミリーの一員だと思うことができましたから」

 ブラジル戦のゴールを玉田以上にジーコが喜んでいた。結果は大敗に終わりながらも、2人の絆があのゴールを生み出した。美しいリズムを奏でた美しいゴールは、ジーコジャパンのせめてもの意地であった。(文中敬称略/第2回に続く)

■玉田圭司 / Keiji Tamada

 1980年4月11日生まれ、千葉県出身。習志野高から99年に柏レイソルに加入し、1年目からプロデビューを果たす。2002年の2ndステージからレギュラーの座を掴んで3得点を挙げると、翌02年には28試合出場11得点と一気にブレイク。06年には名古屋グランパスに移籍し、10年のリーグ初優勝に貢献した。その後はセレッソ大阪、名古屋復帰を経て、19年にV・ファーレン長崎へ。21年に現役引退を発表した。日本代表にはジーコ監督時代の04年にデビューし、同年のアジアカップでチーム最多の3得点を挙げ、優勝に貢献。06年のドイツW杯にも出場し、第3戦のブラジル戦でゴールを決めている。引退後は指導者に転身し、昌平高のコーチを経て監督に就任。同校をインターハイ優勝に導き、25年からは古巣・名古屋のコーチに就任した。

(二宮寿朗 / Toshio Ninomiya)



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二宮寿朗

にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。

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