元日本代表が「農業してます」 引退後に大学院で研究…アスリートを救う「畑の価値」

引退後に大学院で研究に取り組む石川直宏氏【写真:増田美咲】
引退後に大学院で研究に取り組む石川直宏氏【写真:増田美咲】

石川直宏氏はFC東京のイベントで畑と出会った

 2017年シーズン限りで現役生活を終えた石川直宏氏は、FC東京のクラブコミュニケーター(現・コミュニティジェネレーター)に就任した。そこで出会ったのは、サッカーとは一見かけ離れた“農業”。今年4月には立教大学大学院スポーツウエルネス学研究科に入学するなど独自路線を進んでいる。その真意を明かした。(取材・文=FOOTBALL ZONE編集部・井上信太郎/全7回の7回目)

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 現役生活ラストの2年半はリハビリの期間が長かった。サッカーから離れて、マインドセットする役割を果たしていたサーフィンができなくなった。その中で自身の気持ちに変化が生まれた。

「リハビリして、家に帰ってくれば、結局また現実に引き戻され、また明日リハビリかとか、これがいつ続くんだろうっていうネガティブになりがちなんです。家族がその時いたので、まだ和らいだ部分もありますけど。じゃあ、こういうネガティブな気持ちをどう変換できるかなっていうので、当時、多くのビジネスパーソンの方と出会って、サッカーだけじゃなくて色んな話をしたんです。そういう機会を自分の中で意識的に増やしていきました。サッカーだけじゃない領域、僕だったら今まではサーフィンでしたけど、インプット、アウトプットする場所が増えたんです。自分のそういうマインドセットやビジョンを整理していく作業が、次のキャリアにおいてどのような影響が与えられるかなと。整理できる時間になったかなと思います」

 そこで引退後に就任したのがクラブコミュニケーター。「FC東京を強く、愛されるチーム、クラブにしていく役職」と定義づけ、クラブとサポーターをつなぐ存在になろうと決めた。精力的にイベントに出演するなど活動を重ねた。

「自分はサッカーを通じて、関わってくれた人たちをどう元気にさせるか、喜ばせるか、人生が変わったとか、彩り豊かになったかっていうことのきっかけを与えられるか、そして共に歩めるかということをやってきたんです。だけどサッカーを離れて、それをするための手段が本当に分からなかったんです。だから色々活動する中で、こういうことが地域や社会の中で喜ばれるんだとか、こういうことが価値なんだとか、サッカーじゃないところでもその価値だったり、つながりを生めるということに、気づけた。いろんな人と出会ったし、いろんな場所に行ったし、それが自分の財産になっています」

 その中で気づいたのが「畑」の存在だった。三鷹市の農家や後援会、行政が協力したFC東京のイベントで、ファン、サポーターと一緒に収穫体験をした。その時に農業が持つ価値に気付いた。

「その時の雰囲気がすごく良くて。今ではもう四半世紀もFC東京にいますけど、こっち(クラブハウスのある小平)に畑がたくさんあったことに気づいてなかったんです。だから意識を向けないと、波長が合わないじゃないですか。ここに豊かな自然があります、と言われても、気にしなかったら感じないわけで。イベントで畑の存在を意識したらこんなにいっぱいあるじゃんみたいな。これはもう畑って一つの価値だなって感じました」

 2020年、世界中を揺るがす「新型コロナウイルス」が流行した。“コロナ禍”は、人と人とのつながりを希薄にし、サッカーをはじめとしたスポーツも一斉に停止した。プレーの場を奪われた選手たちの存在価値を揺るがすことにもなった。

「コロナ禍になって、選手がサッカーできなくなってしまったんです。でもサッカーできないことで、価値はなくなっちゃうのか?そんなことないよね、みたいな話をみんなでしていた時に、価値を変換していったらいいと。僕らにはファン、サポーターがいるし、そのファンサポーターに価値をどう届けるかってなった時に、サッカーでなくてもいいんじゃないかと」

 そこでつながったのが、畑の存在だった。農作物を通して、人々に価値を提供するという考え方。2021年春、長野県飯綱町で「NAO’s FARM」をスタートさせた。農産物の生産をベースに、EC(電子商取引)や各地での販売、サッカーイベントもおこなうプロジェクト。自らは「農場長」として、運営に汗を流す。

「自分の作ったもので価値を届けたら、それも同じ価値なんじゃないかという話になった。元々地域リーグでプレーしていて、今は『PLAYMAKER』というアスリートのキャリア支援の会社をしている三橋亮太君が、『使ってない畑があるから、畑を活用してやったらいいんじゃないですかね』という意見交換があって。コロナがちょっと明けた時に、長野県飯綱町に初めて行ったんですよ。縁もゆかりもなかったんですけど、そこに行って関わった人だったり、土地だったり、雰囲気がビビビっと来て。2021年から始めることになりました。当時は土づくりして、種まきして、定植して。管理は仲間がやってくれるんで、(飯綱町に通ったのは)2021年は10回ぐらいですかね。行ったり来たりしながら、今はもっと増えていますね」

 看板の一品は「なおもろこし」。20度を超える糖度のとうもろこしで、まるでフルーツを食べた時のように甘味が広がっていく。一口食べた瞬間に惚れた。

「まず自分が食べた時にうまくてめちゃくちゃ驚いたんですよ。これなら出せるっていう自信と、食べてもらった時に笑顔になってくれるだろうなっていう思いで、自分のファン、サポーターに届けました。買ってくれた人たちが、口コミで広げてくれて。今5年ですけど、口コミの広がりとか、味スタの試合時に朝採れのものを販売したりしています。僕はサッカーでファン、サポーターとか応援してくださる方たちにエネルギーを届けてきましたけど、たくさんのものをファン、サポーターからいただいたし、怪我でめげそうになった時に応援してもらって踏ん張れたし、その感謝をいつも考えている。その感謝の手段がサッカーから変わっただけ。そういう感覚です」

今年からは大学院で研究も始めている

「なおもろこし」は大きな反響を呼び、農作物を果実や米などにも広げていく構想もある。そして2025年10月には3回目となる「NAO’s FARM CUP 2025」を開催。橋本英郎さんや谷口博之さんなどの男女の元サッカー選手や、女子ラグビーの選手も参加。小学生向けのサッカー教室やラグビー教室のほか、中学生以上の「大人」のサッカー大会が開かれ、地域産品も振る舞った。

「僕の畑や田んぼだけじゃなくて、例えば、興味、関心のあるアスリートが自分のブランディングをお米を使ってする。引退してからでも、感謝をお米で届けられるというイメージはあるんですけど、ゆくゆくですね。NAO’s FARM CUPでは、サッカーも学べる、自然も触れ合える、他の競技にも触れるっていう機会を作りたくて。いろんなアスリートには畑にも田んぼにも来てもらっていますけど、有名とか無名とかじゃなくて、活動に対する価値とかをちゃんと分かる人かつ、そのお互いのストーリーが重なってる人たちに参加してもらっています」

 2025年4月には立教大学大学院スポーツウエルネス学研究科に入学。農作業を通じて、人と人とのつながりを深めたり、競争のあるアスリートのストレスを、農業の世界の中でマインドセット、チームビルディングできる可能性を、育成年代のアスリートと掛け合わせるという野心的な研究だ。

「畑の価値とアスリートの価値をかけ合わせたスポーツと農っていうのは、今、農林水産省もそうですし、スポーツ庁も『アス農』ということで取り組みをスタートしたんですよ。僕も育成年代から勝負の世界にいて、上に上がれるとか、ポジションを奪われるとか、めちゃくちゃ悩む。やっぱり狭い世界じゃないですか。僕は趣味のサーフィンがあったからマインドセットできたのはありますけど、そのスポーツでしか生きてない選手からすると、やっぱり悩んじゃうんですよ。これはアスリートだけじゃなくてみなさんもそうですけど、やっぱりその世界の中だけで生きていると、発散できなくて病んでしまう。食事や睡眠といった障害も含めて、アスリートもプロ、アマ問わず、3割から4割ぐらいはそういう経験をしているんです。そうなった時に畑で土を耕して自然に触れて、ものを作ることで良い意味でちょっとした逃げ場になるかもしれない。だから今は農業で、マインドセット、チームビルディングできる可能性を育成年代のアスリートと掛け合わせて研究をしています。自分の思いだけじゃなくて、『ちゃんとこうなんですよ』ということを言えるように、というのが一番のきっかけです。日本の農や食を変えるのはもしかしたらアスリートかもしれないです」

 引退当初は指導者の道も選択肢にあった。だが活動の場を広げた今は、知見を深め、人脈を広げ、人と人とのつながりを強くして、FC東京を内部から強くすることを考えている。

「最初は指導者になる準備をしていましたし、ライセンスもA級まではとりました。でもどれだけいい選手をとってきても、いい監督が来ても、いい環境を作ったとしても、結局は人なんですよ。東京という土地は、いい意味で言えば尊重していると言えますけど、悪く言えば、他人事というか、あまり人に干渉しないじゃないですか。人と人との距離感がグッと変わった時に、一体感につながり、力になり、結果につながるって思っていて。僕はどちらかと言ったらそういう、監督やコーチ、選手をマネジメントする側でいたいし、後押ししたり、つなげたりしたい。地道に時間を掛けてでも関係性の質を変えて、お互いの思考を理解した時に行動し、結果につなげるというサイクルが作れたら、僕はこの東京という地が変わると思っているんです。その要素がFC東京にあると思っている。それだけ影響力がサッカーにも、FC東京にもあると思っています。影響力、可能性をそのままで終わらせるんじゃなくて、その一歩を自分の信念と熱量を持って生み出せるかどうか。そういうことをしてきた人はいないので」

 サッカーと農業。全くかけ離れたものに思えるが、思いはひとつだ。

「いかに自分の中でワクワクを作るか。でも自分だけでは作れない方もいるので、一緒に作ったり、共有することができればいいなと。僕はその景色をサッカー選手のうちに、ファン、サポーターの方と見ることができた。だからそのきっかけやつながりになればいいなと思っています。今、めちゃくちゃ楽しいです」

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