Jデビューわずか2戦で初招集「何の代表ですか?」 今も破られぬ記録…17歳を襲った未知の重圧

連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」:市川大祐(清水エスパルス・トランジションコーチ)第2回
日本サッカーは1990年代にJリーグ創設、ワールドカップ(W杯)初出場と歴史的な転換点を迎え、飛躍的な進化の道を歩んできた。その戦いのなかでは数多くの日の丸戦士が躍動。一時代を築いた彼らは今、各地で若き才能へ“青のバトン”を繋いでいる。指導者として、育成年代に携わる一員として、歴代の日本代表選手たちが次代へ託すそれぞれの想いとは――。
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FOOTBALL ZONEのインタビュー連載「青の魂、次代に繋ぐバトン」。清水エスパルスのトップチームでポジションをつかんだ市川大祐は、17歳にして日本代表まで一気に駆け上がる。1998年のフランスW杯では最終選考にまで残り、未知のプレッシャーとも戦うこととなった。(取材・文=二宮寿朗/全5回の2回目)
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ユースの高校生がトップチームの試合に出るなんて、まだまだ珍しかった時代。
1998年3月21日、間もなく高校3年生になる市川大祐は清水エスパルスのユニフォームをまとい、日本平のピッチに立っていた。
北海道コンサドーレとのJ開幕戦。プレーを見て学んだ堀池巧、ミスターエスパルスの澤登正朗、大榎克己、伊東輝悦、森岡隆三、戸田和幸らと肩を並べるように自分がいる。スタジアムはファンで埋め尽くされ、憧れた場所を踏みしめていることに胸の高鳴りを感じていた。
開幕1週間前に、オジーことオズワルド・アルディレスから監督室に呼ばれた。開幕スタメンを言い渡されたが、実は親にも内緒にしていたという。誰かに口外してしまうと、何となく実現しないような気がしたからだ。
右サイドバックのポジションに入った17歳は、目の前の事象に対応するだけで精いっぱいだった。余裕がなく、視野が狭くなっていたことは否めない。後半早めの交代となり、あまりに悔しくてシャワーを浴びながら涙を流した。
「チームのみなさんと石垣島キャンプから一緒にプレーしてきて、実力が違いすぎてショックを受けるとか、全然ダメだなと思うとか、そういうことはまったくなくて、毎日ワクワクしながらやれていました。先輩たちもみなさん優しかったですよ。だから普通にもっとやれるだろうと思っていました。それなのに(開幕までの)1週間はトレーニングでもなかなかリズムに乗り切れていなくて、感覚が良くなかった。開幕戦を迎えて、ボールを持った時に周りをなかなか見られなくて、自分らしいプレーができなかった。緊張もあったとは思います」
監督はどう感じたのだろうか。
オジーからの評価を待ったが、何も言ってはくれなかった。
いつまでも悔しい気持ちを引きずることなく、もう次の試合に向けて切り替えなければならなかった。オジーがその姿勢を見ようとしていたことは、後になって気づかされる。
「自分なりに開幕戦の反省をしました。最初のプレーの入り方から振り返ってみて、もっとアグレッシブにプレーしなきゃいけない、もっと守備を強くいかなきゃいけない。そう強く感じました」
突然の日本代表招集「何の代表ですかと…」
京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)との開幕2戦目にも市川は再び先発に入ってプレーした。早めの交代となって試合も敗れたとはいえ、開幕戦よりも断然うまくやれたという手応えがあった。
ここでまったく思いがけないことが起こる。フランスW杯出場を控える岡田武史監督率いる日本代表が4月、アウェーで韓国代表と戦う国際親善試合のメンバーにサプライズ招集されたのだ。ユース所属で、開幕2試合に出たのみ。格段、アピール材料があったとも思えない。何かの間違いと思ったのは無理もなかった。
「エスパルスのマネージャーさんから代表に入ったという連絡が自宅にあって。何の代表ですかと聞いたら、フル代表だと。えっ、どういうことですかと聞き返しましたからね。だって前の年、ジョホールバルで岡野(雅行)さんが最後にゴールを決めて、テレビの前で飛び上がって喜んでいたんですよ、僕。2002年の日韓W杯を目指していましたけど、今その場所に行くなんて当然想像もしていません」
クエスチョンマークだらけのまま、日本代表に合流する。日本のトッププレーヤーが集うなか、自分の存在をはっきりと認識していない選手もさすがに多かった。
「仕方ないと思いますよ。(開幕2試合で)取り上げてもらえるだけの活躍をしていれば違っていたかもしれないですけど、別に何かインパクトを残せたわけでもなかったので。プリントに記されている所属先に清水エスパルスユースとあるので、『ユースって間違って入っているよ』という声もあったくらいですから」
サプライズに続きがあった。ゲーム形式のトレーニングになると「テレビで観ていたスタメンの人たち」と一緒のグループに入り、一つ年上の小野伸二からも「イチ、これ(先発)あるぞ」と声を掛けられて覚悟を決めるしかなかった。
岡田からは特に説明もない。ただハ・ソクジュ、ソ・ジョンウォンという韓国代表の左サイドの映像をスタッフから見せられ、「こんなに速い選手とマッチアップするのか?」と困惑した。でも、やるしかなかった。
「さすがに緊張はしていました。ロッカールームに1人で座っている時に岡田さんから『重い責任を背負わなくていいから、思い切ってやってこい』みたいに言われて、気持ちがスッと楽になったんです。そうだよな、選んだのは岡田さんだしなって。ピッチで整列した時も、試合前に国歌を聞いた時も、不安はもう一切なかった。気持ちを切り替えられていたとは思います」
怖気づかないアイアンハート。これもまた市川の良さなのかもしれない。韓国の強力な左サイドと対峙し、必死に食らいついた。Jリーグで90分フル出場を果たした経験がないのに、雨が強く降るピッチで戦い抜いた。17歳322日でのA代表初陣は、今なお破られていない日本代表最年少出場記録。静岡からの新しいスター候補生の誕生に、メディアも色めきたった。
前半45分で交代予定だったという。しかしキャプテン井原正巳の負傷交代によって市川に交代カードを使えなくなった。岡田はアルディレスにその方針を事前に伝えていただけに、謝りの連絡を入れたとの裏話がある。
18歳でW杯メンバー落選を経験…体を重くしたプレッシャー
春とは思えない寒さと雨の影響で帰国直後に風邪をひいてしまったものの、すぐに回復させてJリーグでの出場を続けた。そしてフランスW杯の最終選考となる25人のメンバーにも選ばれた。
「自分では2002年だと思っていたことが4年早くチャンスがやって来た。だったらつかみにいくしかない。自分がやれることを精いっぱいやろうと思いました」
しかしながらスイス合宿ではコンディションが思わしくなく、身体がずっと重く感じていた。トレーニングマッチでも満足できるパフォーマンスとは程遠く「この出来じゃメンバーに残れない」と覚悟した。案の定、岡田から部屋に呼ばれて、落選の通達を受けた。
「もちろん受け入れましたし、岡田さんからは『帰ってもいいし、(サポート役で)残ってもいい。お前が決めろ』と言ってくれたので、もう即答で『残らせてください』と。W杯を戦う代表チームにいるだけで学べるものは多いと思いましたから」
部屋に戻ると、涙があふれ出た。分かっちゃいるけど、悔しくてたまらなかった。家族にも残る決断を電話で伝えると、「しっかりとやってきなさい」と励まされた。
すると、どうだ。メンバーから外れてから、どんどん調子が上がっていったという。身体の重みも嘘のように消えた。紅白戦でも伸びやかにプレーする市川がいた。
「選考がもうちょっと遅かったらと思った時期もありましたよ。でも後々思ったのは、もしそうなったとしても結果は変わらなかっただろうなって。(選考の)プレッシャーを、想像以上に感じていたんだと思います。だってそれがなくなった瞬間に身体が軽くなりましたから。やっぱりあの頃の自分では乗り越えられなかった」
18歳になったばかりの少年が、背負っていた計り知れないプレッシャー。彼はつぶされることなく歯を食いしばって前に進もうとした。それだけでも計り知れない、得難い経験であったことは言うまでもない。
(文中敬称略/第3回に続く)
■市川大祐 / Daisuke Ichikawa
1980年5月14日生まれ、静岡県出身。清水エスパルスユース所属時の1998年3月に17歳でJリーグデビューを果たし、1999年のJ1リーグ2ndステージ優勝、アジアカップウィナーズカップ1999-2000優勝に貢献。2010年の退団まで、チームの右サイドを支え続けた。日本代表には1998年に歴代最年少の17歳322日でデビュー。2002年の日韓W杯にも出場し、グループリーグ第3戦のチュニジア戦では中田英寿のゴールをアシストした。2016年の引退後は指導者に転身し、25年から清水エスパルスのトランジションコーチを務めている。
二宮寿朗
にのみや・としお/1972年生まれ、愛媛県出身。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。2006年に退社後、「Number」編集部を経て独立した。サッカーをはじめ格闘技やボクシング、ラグビーなどを追い、インタビューでは取材対象者と信頼関係を築きながら内面に鋭く迫る。著書に『松田直樹を忘れない』(三栄書房)、『岡田武史というリーダー』(ベスト新書)、『中村俊輔 サッカー覚書』(文藝春秋、共著)などがある。




















