W杯サプライズ選出も「自分は甘かった」 今も思い出す出来事、中村俊輔の涙で「覚悟の違いを痛感」

矢野貴章が南アフリカW杯を回顧した【写真:FOOTBALL ZONE編集部】
矢野貴章が南アフリカW杯を回顧した【写真:FOOTBALL ZONE編集部】

矢野貴章が振り返る南アフリカ・ワールドカップ

 日本代表として2010年の南アフリカ・ワールドカップにも出場し、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクでプレーをしたFW矢野貴章。41歳になった今でも現役を続ける大ベテランのキャリアについて話を聞いた。第3回は2010年の南アフリカ・ワールドカップについて。(取材・文=元川悦子/全8回の第3回目)

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 98年フランス大会から8大会連続でワールドカップ(W杯)出場を決めている日本代表。2026年北中米W杯では史上最高成績のベスト8以上が期待されるが、過去にベスト16入りしたのは、2002年日韓、2010年南アフリカ、2018年ロシア、2022年カタールの4回。ラウンド16で史上初のPK戦までもつれこんだのが、2010年だった。

 この時の日本代表は、ご存知の通り、岡田武史監督(FC今治代表取締役会長)が指揮を執り、当時最年長だった34歳の川口能活(磐田GKコーチ)から22歳の内田篤人(解説者)まで幅広い年齢層のメンバーで構成されていた。

 そこにサプライズ選出されたのが、アルビレックス新潟で活躍をしていた当時26歳の矢野だった。

 メンバー発表会見で指揮官は「矢野にはフィジカルとセットプレー時の守備に期待している」と選考理由を語ったが、「W杯は小さい頃からの夢で、プロになってからも行きたいと思ってやっていたんで、選ばれた時はすごく嬉しかった」と本人は当時の率直な思いを吐露する。

 とはいえ、矢野は2004年アテネ五輪世代で下の年代。玉田圭司(名古屋トップコーチ)とは柏レイソル時代に共闘経験があったが、同世代のメンバーが皆無に近く、やりづらさがあったのは事実だろう。

「当時の僕は新潟にいて、同じチームから一緒に代表に行く選手はいなかったですし、常にマイノリティという感覚でしたね(苦笑)。だからこそ、新潟っていうチームをもっと有名にしたいと思った。『もっと代表が数多く出てくるような強いチームにしたい』と考えながら必死にやっていましたね」とかつての胸の内を明かす。

 チームは壮行試合・韓国戦(埼玉)で0-2の完敗を喫し、スイス・ザースフェーの直前合宿中のイングランド戦(グラーツ)、コートジボワール戦(シオン)でも負けが続き、不穏な空気が流れていた。それでも矢野は黙々とトレーニングに励み、迎えた初戦・カメルーン戦(ブルームフォンテーン)。日本は本田圭佑の値千金の先制弾で1点をリードし、ラスト10分を切った。そこで岡田監督が送り出したのが、背番号12だった。

「呼ばれた時、1-0だったんで、『これはこのまま勝たないとまずいな』と思ったのは、よく覚えています。圭佑のゴールが入った時はベンチにいましたけど、素直に嬉しかった。僕らは大会前は絶不調だったんで、そういうなかで圭佑が決めてくれたのはすごく大きかったですね。

 圭佑が1トップに指名されたのは大会直前でしたけど、特にそこに対しての悔しさはなかった。実際、練習ゲームでもしっかり前線でボールが収まっていたし、彼は強いですからね。ギラギラ感もすごかったし、CSKAモスクワ(ロシア)で実績も残していましたから。その圭佑が1点を取って、ベンチに走ってきたシーンはよく覚えていますし、自分はその1点を必死に守ろうとした印象があります」と矢野はロスタイム含めて10分程度のW杯でのプレーをしみじみと述懐する。

 この初戦勝利でチームは一気に勢いに乗り、グループリーグを2位通過。ラウンド16でパラグアイとプレトリアで対戦し、冒頭の通り、PK戦で敗れるに至った。PK戦で失敗したのは、3番手で出てきた駒野友一(広島ユースコーチ)だったが、号泣する駒野を同い年の松井大輔(Fリーグ理事長)や阿部勇樹(浦和ユース監督)が励ます傍らで、矢野は「ああ、大会が終わったんだな」という虚無感を覚えていたという。

「僕が一番印象に残っているのは、パラグアイに負けて、スタンドに挨拶に行く時に俊さん(中村俊輔=横浜FCコーチ)が泣いていたことですね。それを見た時にこの大会の大きさ、そして俊さんがどれだけそこに賭けていたのかを強く感じて、自分との覚悟の違いを痛感させられました」

 矢野が神妙な面持ちで言うように、中村俊輔は98年フランスW杯候補入りしてから12年間、W杯での活躍を願い続けてきた。しかし、2002年はまさかの落選。2006年ドイツW杯は初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)で先制点を奪ったものの、原因不明の発熱に見舞われ、チームも惨敗した。そして集大成と位置づけていた南アW杯は結果的にレギュラーを外され、オランダ戦(ダーバン)の途中出場のみにとどまった。その悔しさと不完全燃焼感が涙という形になって表れたのだろう。当時26歳だった矢野には大いに響くものがあったようだ。

「でも当時の僕は『この時間がこの先も続いていくんだろうな』と勝手に思ってしまっていました。2010年が終わっても、2014年ブラジルW杯に行けるかどうかは分からないけど、それを争っていけるだろうなと楽観視していたんです。

 でも実際のところはそんなことはなかった。僕は南アW杯の後、一度も代表に呼ばれませんでしたし、自分の考えが甘かったし、詰めも甘かったなと思います」

 矢野自身が苦渋の表情を浮かべる通り、2010年の秋にアルベルト・ザッケローニ監督が就任した後は南アW杯で躍進した本田圭佑、長友佑都(FC東京)、岡崎慎司(バサラ・マインツ監督)、内田ら北京五輪世代への若返りが一気に進んだ。南アW杯で急遽、キャプテンになった長谷部誠(フランクフルトU-21コーチ)がそのままリーダーとしてチームを統率する形にはなり、松井や駒野はその後もしばらくは招集されたが、矢野にチャンスは巡ってこなかった。

「限られた時間の中でできたことはもっとありました。そういう後悔が今もありますし、その一瞬一瞬を大切にしなければいけない。それは40代になった今も肝に銘じていることです」

 15年前の悔しさは矢野が長く現役を続ける原動力になっている。それは紛れもない事実と言っていい。(第4回に続く)

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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