日本代表監督に「脅迫電話止まらない」 自宅前に警察車…壮絶W杯予選「逃げ道あれば逃げた」

W杯初出場を決めた壮絶なアジア予選を回想【写真:Getty Images】
W杯初出場を決めた壮絶なアジア予選を回想【写真:Getty Images】

W杯初出場を決めた壮絶なアジア予選を回想

 日本代表はワールドカップ(W杯)に7大会連続で出場し、今やアジアの強豪国に君臨する。歴史を紐解くとW杯本大会の切符を掴むまでに幾多のドラマが存在してきたなかで、壮絶だったのは1997年のアジア最終予選の道のりだ。監督交代も起きた同予選では、急遽コーチが指揮官へ引き上げられ重責を担うシナリオがあった。

 2026年の北中米W杯出場権争いは、現在進行中の各大陸予選で決まる。この大会からは出場国が48チームに増加し、アジア枠は4.5から8に拡大。日本がW杯初出場を決めた1998年フランス大会でも出場国が24から32へと拡大されたなかで、アジア枠は2から3.5に増えていたが予選は平たんな道のりではなかった。

 1997年のW杯アジア最終予選に進んだ当時の日本はW杯未経験国。ホーム&アウェー方式でのリーグ戦で行われた最終予選で悲願の初出場を狙った。その予選ではウズベキスタン相手に6-3で白星スタートを切りながらも第4節の韓国戦を1-2で落とすと雲行きが一変する。翌節のカザフスタン戦、アウェーで先制しながら後半ロスタイムの同点被弾でドロー。試合後に“事件”は起こった。

 JFA(日本サッカー協会)は当時チームを率いていた加茂周監督の更迭を決断。代わって指揮官の座に就いたのはコーチの岡田武史氏だった。代役候補が見当たらないなかでの緊急登板。思いもよらぬ形で重責を担うことになった岡田氏は「ABEMA」で2月17日に配信された「NewsBAR橋下」で当時の舞台裏を述懐している。

「最初は断った。でも僕のボス(会長)が『お前がやるしかない』と。とにかく引き受けて。有名になると思ってなかったから、電話帳に載せてたんです。脅迫状、脅迫電話止まらなくて、家の前は24時間パトカーが守っていて、子供は危険だから学校送り迎えするようにと、妻が毎日送り迎えした。

逃げる道があったら逃げていたと思う。正直、最初は1試合で辞めると言ってたんですよ。ところが(初采配の)ウズベキスタンでギリギリ引き分けて、あっこれはいけるかもしれんと思った。ロッカールーム帰ったら選手たちがもう駄目だとわんわん泣いていた。まだ可能性あるぞ、ひょっとしたらと。ボスに電話して『最後までやりたい』と言った」

 日本は瀬戸際に立たされながらも、グループ2位でアジア第3代表決定戦へ進出。イランと延長戦にもつれ込む死闘を演じた末、岡野雅行のゴールデンゴールで3-2と勝利しW杯初出場を決めた。この一戦は、開催地だったマレーシアのジョホールバルの地名を取り「ジョホールバルの歓喜」として語り継がれる。

「イランに勝って出場決めて、皆に言われたのが『バスがシーンとしてましたよね』」と。そう言えばそうだと。皆やったーではなくて、これで国へ帰れるとホッとしていた」と岡田氏。悲願だったW杯出場を懸け、骨身を削る思いでアジア予選を戦った選手やスタッフたち。その舞台裏はまさに壮絶だった。

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(FOOTBALL ZONE編集部)



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