18歳の小野伸二、開幕3日前に驚かされた一言 傑出した人間性と忘れられない22年前の光景【コラム】

高校生ながら中盤の王様となった小野伸二【写真:Getty Images】
高校生ながら中盤の王様となった小野伸二【写真:Getty Images】

浦和担当として記者キャリアの救世主

 最下位、最下位、4位、6位、10位……。Jリーグがスタートした1993年から97年までの浦和レッズの年間順位である。

“Jリーグのお荷物”と失笑された93年が36試合で8勝、翌年も44試合戦って14勝だ。地元紙で浦和を担当していた私は、来る日も来る日も敗戦原稿を書き続けた。

 ドイツ代表として90年のイタリア・ワールドカップ(W杯)を制したギド・ブッフバルトは、腰砕けのチームにあきれていた。加入間もない94年9月3日の横浜フリューゲルス戦でPKを獲得したが、「下を向いて誰も蹴ろうとしない」と怒り、自らボールをセットした。1週間後のベルマーレ平塚戦で完敗すると、「このチームには戦う意欲が足りない」と大層ご立腹だった。

 97年は9度もシステムを変える非常識な荒療治。相次ぐ監督交代に一貫性のないクラブ社是。前身の三菱自動車時代から担当し愛着があったとはいえ、こんな浦和を取材するのが少々退屈になっていた。

 そんな折、清水商業高校の小野伸二が浦和にやって来るというではないか。そこでもう1年、担当記者を続けてみようと思い直した。

 全日本ユース選手権で2度、インターハイで1度、埼玉と静岡の国体少年選抜による親善試合で2度。計5試合観戦し、パス出しとダイレクトプレーが頭に残っていたが、武南高校時代の上野良治ほどの大器とは思えなかった。

 ところがこの曲解はすぐに砕かれる。受け手への思い遣りが満載された柔らかで優しいパス、攻撃にリズムを生み出すワンタッチでのボール操作。ウォーミングアップを見ているだけでも楽しかった。

 しかし、衝撃と感動はテクニカルな側面だけではなく、人間性も傑出していた。小野を取り巻く人々は、例外なく好感を持ったものだ。

 98年2月11日、初見参となる市立船橋高校との練習試合があり、30分ハーフの2本目と3本目に登場。ボールに触れた回数はチーム随一の61回で、9本あったコーナーキック(CK)はすべてキッカーを務めた。まだ卒業式を終えていない高校生だが、ピッチに入った途端に中盤の王様となった。

 そしてピッチを出ると人柄に優れた選手に変わり、数百人の観戦者全員のサインに応じた。

 この一幕で一級品のプロであり、素晴らしい人格の持ち主だと感心させられ、小野への関心がどんどん高まっていった。

「子どもの頃はサッカーしか遊びがなかった」
「ファミコンでも負けたくなかったですね」
「筋トレは高校の時から好きじゃなかったなあ」
「大学進学は考えたことがない」
「ミスをしないのが一番いい選手」
「サッカーがなかったら生きる楽しみもない」

 ジェフユナイテッド市原との開幕戦を3日後に控えた練習後だ。クラブハウスの手前にあるピッチの右端に尻をつきながらたっぷり取材し、たくさんの問答を繰り返した。

 ホームスタジアムは常に千客万来だが、観客にどんなプレーを見せたいのか、というのが質問での一番の関心事だった。

 小野はこう言い放った。

小野の人間性に魅了された

「観客はお金を払ってくれているので見て楽しい、また見に来たいと思うような試合をやりたい」

 18歳の少年が、“金を落としてくれる”といった所感を抱くだろうか。この一言に仰天し、この一言でますます小野が好きになった。

 試合前夜の入浴中、「明日はどんな試合を見せてくれるのだろう」とワクワクしたものだ。

 浦和に在籍した2001年の第1ステージまで、小野には随分と楽しませてもらい、浦和に嫌気が差してきた私の意欲を回復させ、救ってもくれた。

 思い遣りとか気遣いとか、小野の魅力は優れたパーソナリティーに凝縮されている。

 フェイエノールトに移籍する直前、01年7月4日に大分スタジアムで行われたユーゴスラビア代表とのキリンカップだ。先発した小野はそこまで不調ではなかったのに、服部年宏と交代して前半だけで退いた。

 試合後、ドレッシングルームから出てきた小野に声を掛けたが、「すみません。今日は勘弁して」と顔をしかめながら出口に向かった。しかし、少し先には代表初ゴールの稲本潤一を目当てにした大勢の記者が陣取っていて、そこで足を止められた。

「捕まったか」と思いながら移動している最中に取材は始まったのだが、小野は口を開かず答えようとしなかった。キョロキョロと小柄な私を探し、目が合うと右手を挙げてニコリ。私が右手を挙げて返したところで、しゃべり始めたのだ。22年前のこの情景、この出来事は記憶から消えることがない。

 たぐいまれなる才能と人格を兼ね備えた不世出のフットボーラーとの邂逅は、かけがえのない財産である。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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