太田宏介が周囲を愛し、愛された訳 逆境を跳ね返して掴んだ日本代表への道【コラム】

現役引退を発表した町田の太田宏介【写真:(C) FCMZ】
現役引退を発表した町田の太田宏介【写真:(C) FCMZ】

今季限りで18年のプロキャリアに幕

「ご無沙汰しています!今シーズン限りで引退することになりました。それに伴い、10月3日に引退会見を行うことになりました。もしお時間ありましたら来てくれたら嬉しいです。爆笑会見を目指します!笑」

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 9月24日、筆者のところに1通のメッセージが届いた。差出人は元日本代表の太田宏介(FC町田ゼルビア)。現所属の町田ゼルビアからは9月28日に「太田宏介選手から皆様へお知らせ」というリリースが流れてきたが、それより前に本人が直々に連絡をくれたのだ。

 この行動を見ても分かる通り、彼がいかに礼儀正しく、誠実な人間であるかがよく分かるだろう。

 実は今回、筆者は健康上の理由で都内にて行われた会見に出向くことができず、YouTube配信を視聴したのだが、質疑応答の際に太田が旧知の記者の名前を1人1人呼んで、感謝を口にしていた姿に心を打たれた。会見冒頭にも「ダメだ、もう泣いちゃっている。こういうの弱いんだよな」と目を真っ赤にしていたが、その様子を見ていても、彼の人の良さ、優しさがひしひしと感じられた。

 ここまで関わった1人1人を大切にしようとするサッカー選手はそうそういない。その人間性に心から敬意を表したいし、彼ならセカンドキャリアも成功すると確信している。

 日本代表まで上り詰めた太田がなぜここまで謙虚な姿勢を持ち続けられるのか。やはりそれは生い立ちによる部分が大だろう。

 彼がオランダ1部フィテッセでプレーしていた2016年12月、現地を訪れてじっくりと話をする機会があったのだが、「中学3年の時、両親が離婚して母さんと兄と3人で古いアパートに引っ越しを余儀なくされたんです」と本人が切り出したのだ。

「引っ越した日に3人で誓ったのは『1日でも早くこの家を出よう』ということ。僕はプロサッカー選手になり、兄は起業して沢山お金を稼ぐという話もしました。当時、兄は大学生でしたけど、遊びを一切やめてバイトして家にお金を入れてくれた。だからこそ、僕も変わらないといけないと思って『サッカーとしっかり向き合おう』と決意したんです」と彼は苦しかった頃を包み隠さず話してくれた。

 進路もトレセン活動を通して親しかった小林悠(川崎フロンターレ)の母親が持ってきてくれた麻布大学付属淵野辺高校を選んだ。経済的負担が最も軽かったからだ。そこで2、3年時に続けて高校サッカー選手権に出場。精度の高い左足キックを武器とする左ウイングバックとして知られるようになったが、プロの道はなかなか開けてこなかった。太田自身は奨学金を借りて国士舘大学か東京農業大学のいずれかに推薦で行こうと考えた。が、そのタイミングで当時J2の横浜FCからオファーが届いた。

「練習生で給料も安かったけど、好きなサッカーでお金をもらえるなんて、そんなに幸せなことはない。そう思って即決しました」と太田はプロ選手の夢に突き進んだ。

 そして2006年に横浜FC入りした直後、太田は兄と共同名義でマンションを購入。プロ1年目の練習生にはリスクの高い買い物だったが、「母さんを幸せにする」という一心で借金を背負った。となれば、成功を収めるしかない。1年目は怪我などに苦しんだが、2年目からは左サイドバック(SB)のレギュラーを確保。2007年U-20ワールドカップ(カナダ)にも参戦。同期の槙野智章(現品川CCセカンド監督)や内田篤人(JFAロールモデルコーチ)、1つ下の香川真司(セレッソ大阪)といった素晴らしい仲間にも巡り合えた。それは大きな財産だ。

刺激を受けた香川の存在、左SBの能力を引き上げた恩師に感謝

 のちに太田が名古屋グランパスからオーストラリアAリーグのパース・グローリーへ移籍を決めた2020年の年末、コロナ禍真っただ中で日本を出国できず、塩漬け状態を強いられたことがあった。その時、脳裏に浮かんだのが、香川のことだったという。

「真司もサラゴサとの契約が切れた後、PAOKに行くまで4か月ものフリー状態を強いられた。スペインで単身、練習を続けるのは心身両面でメチャメチャキツいはず。『真司も頑張っているんだから俺もやらないといけない』と気持ちを奮い立たせました」と彼は話したが、やはり同世代の刺激というのはプロキャリアを続けるうえで大きなモチベーションになるのだ。

 もう1つ、大きかったのが、自分を認めてくれる指導者の存在。プロ3年目の2008年、横浜FCを率いたのは、元日本代表で左SBを務めた都並敏史監督(現ブリオベッカ浦安)だった。「自分は左SBを育てることには自信がある」と口癖のように言う都並氏は太田の才能に一目ぼれし、攻守両面から徹底的に鍛え直したのだ。

「1年間ずっと使ってもらい、専門的な守備やキックの蹴り方も延々と指導されました。周りからはひいき目に映るくらい、愛情持って接してくれました」と太田も心から感謝する。

 ここで左SBの能力に磨きをかけることができたからこそ、彼はJ1清水エスパルス、FC東京と着実にステップアップ。FC東京時代の2014、15年に2年続けてベストイレブンに名を連ねるまでになった。それぞれのクラブで自身を重用してくれた監督たちがいたから、太田は大きく飛躍できたのだ。

 この時点で彼は日本屈指の左SBとして認められる存在になっていた。だからこそ、ハビエル・アギーレもバヒド・ハリルホジッチの両監督に代表招集されたのだろう。当時は長友佑都(FC東京)の全盛期で、彼はなかなか試合に出ることができなかったが、2014年10月のブラジル戦(シンガポール)には親友・小林悠と先発出場。ネイマール(アル・ヒラル)に4失点し、完敗を喫したものの、太田自身は「少ないチャンスの中で自分の形、クロスは少しは出せたと思います」と前向きにコメントしていた。

 あのまま代表に定着していたら、彼の左足が世界中に轟いた可能性がある。そう考えるとやはり惜しかった。

セカンドキャリアはメディア出演やキャリア支援など多岐にわたる

 そういうことも含め、横浜FC、清水、FC東京、フィテッセ、名古屋、パース、町田という7クラブで過ごした18年間のプロ生活に彼は納得しているという。最初は「母さんを幸せにする」という一心だったかもしれないが、彼は着実に階段を駆け上がり、日本のトップ・オブ・トップまで這い上がった。自分のストロングをコツコツと磨き、壁にぶつかっても乗り越えるために努力し、仲間を大切にし、感謝の念を抱きながら、謙虚に歩み続けてきたからこそ、今がある。その泥臭くタフな生きざまをより多くの人に再認識してもらいたいものである。

 今後についてはメディア露出、スポーツイベント開催、アスリートのキャリア支援などを手掛けていくというが、つねに明るく前向きで人懐こい太田なら何でもできるはず。これからの活躍も祈りつつ、まずは今季町田で残された試合に全力を注ぐことが肝要だ。1分1秒でも長くピッチに立つ稀代のレフティの姿を楽しみに待ちたい。

(元川悦子 / Etsuko Motokawa)



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元川悦子

もとかわ・えつこ/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。サッカーの取材を始める。日本代表は97年から本格的に追い始め、練習は非公開でも通って選手のコメントを取り、アウェー戦もほぼ現地取材。ワールドカップは94年アメリカ大会から8回連続で現地へ赴いた。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。

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