2度の交渉も…幻に終わった古巣復帰「縁がなかった」 愛ある横断幕に「感激した」

2010年に札幌から獲得の申し出、2016年には山瀬功治から打診も復帰ならず
2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の最終回)
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今年3月2日、山口はホームの維新みらいふスタジアムでの札幌戦後、山瀬の引退セレモニーを開催した。
山瀬がプロフットボーラーのキャリアをスタートさせたのが札幌なら、職歴に終止符を打ったのが山口。これも縁としか言いようがない。札幌が9年ぶりにJ2へ降格しなかったら、こんな小粋な舞台は整うはずもなかった。気の利いた山口の演出はスマートで、敵地に駆け付け労をねぎらう札幌サポーターの風情は何ともいなせだった。
『俺達の街の誇り ありがとう山瀬功治』
白い布に黒字で力強く書かれた言葉には、シンプルだがサポーターの愛情がたっぷり込められていた。ピッチでの挨拶が終わり場内を一周。横断幕を掲げる札幌サポーターのいるスタンドへ向かった山瀬は、応援歌を歌う彼らに何度も何度も頭を下げ、何度も何度も手を挙げ、拍手しながら謝辞を表した。
「あの横断幕には驚きました。自分のわがままで浦和レッズへ移籍した申し訳ない気持ちがずっとあり、受け入れられなくても仕方ないのに、ああいう形でねぎらっていただいた。もう感謝しかありません。札幌へは直行便がなく羽田か福岡経由なので、すぐに帰らないと最終便に間に合わない。それでも大勢の人が残ってくれてすごくありがたかった。個人の思いを優先して移籍するからには責任が生じ、成長した姿を結果で示すことが義務だった。受け入れてもらえたのは、成長できた証拠なのかなって感激しました」
キャリアを積み上げ大きな怪我とは無縁に
山瀬は2010年、6シーズン在籍した横浜F・マリノスと契約満了になったが、J1は川崎フロンターレなど4チームから、J2も札幌をはじめ3チームから獲得の申し出があった。選手として脂が乗っていたときだけに、J2クラブは選択肢になかった。
6年後、京都サンガF.C.との契約が切れた。移籍先を探すなか、代理人を通じて札幌に打診してもらったが、5年ぶりのJ1復帰を果たしたため断られた経緯がある。
山瀬は「札幌が欲しかったときは僕が固辞し、逆に僕が行きたかったときはタイミングが悪かったというように、移籍については縁がなかったんですよね」と残念がった。
次代を担うホープとして、大きな期待を寄せられていた時期に限って故障を重ね、苦しめられた。右膝と左膝の前十字靭帯断裂から始まり、右膝半月板の亀裂に腰椎椎間板ヘルニア、重度の右足裏痛と右足首捻挫、グロインペイン症候群……。
ところが選手として年輪を刻み、キャリアを積み上げるほど大きな怪我とは無縁になったのだから不思議なものだ。身体をどうやってケアするのかを体験から学び、自らその手法を身に付けた。さらにアスリートに必要な栄養学を習得した理恵子夫人の食事面のサポートも大きかった。
直球の質問を投げ掛けてみた。サッカーとは? 案の定、「人生そのもの」と即答した。
25年は本当にあっという間だったそうだ。
「新しいシーズンは何ができるのか、この年はどんな結果を残せたのか、というように1年、1年が勝負なんです。25年間ずっとその繰り返しだったので、1年区切りでしか見てこなかった。どんな職業の人でも、『今年もあっという間だったなあ』ってよく言うじゃないですか。僕の場合はたまたま、1年スパンの仕事を25年繰り返してきただけですから、“25年”として見ることがないんですよ。1年が25回あったという感じですかね。今、この瞬間だけにフォーカスするサッカー人生だったと思います」
今後の人生設計「人のためになる活動をして恩返ししたい」
5月に山口のアンバサダーに就任し、クラブ・コミュニティ・コネクターという役を拝命。山口を取り巻くすべての人々との懸け橋になる活動を展開中だ。
地元企業のトークショーをはじめ、同じくOBの坪井慶介氏と山口の試合をテレビ解説。都内で山口県観光物産展があればPRに出向き、中学生にこれまでの経験を伝えて夢を育み、小学生の新体力テストに向けた体力向上教室では講師役をこなす。クラブのジュニアチームやスクールを訪問し、指導と助言に精を出すなど就任1か月あまりでたくさんの経験を積んでいる。
今後の人生設計については「今までは応援してもらう立場だったので、人のためになる活動をして恩返ししたい。サッカーが中心になると思うが、それに限らずこれまでの経験を伝えていけたらと思います」と青写真を示す。
日本サッカー協会公認の指導者資格はB級を取得済みで、「監督に絶対なりたいわけではないけど、選択肢が広がるから」と、A級ジェネラルと最上位のプロライセンスの受講も計画中だ。
最後に酸いも甘いもかみ分けた恋女房への思いを書き留めておく。4つ年上の理恵子夫人とは、19歳で出会って今年で24年目。
「妻であり、師匠であり、僕のサポーターです。若い頃、社会で生活するのに足りないところを教えてくれ、人間としてのあり方もアドバイスしてくれた。反発もしましたが、理恵子を見ていると人として見習うべきことを感じ取れた。山瀬功治というサッカー選手をつくり上げ、山瀬功治というひとりの人間を育ててもらった。みんな彼女のおかげです」
耐えることの多いサッカー人生だったが、家に帰れば細君の笑顔と食卓に癒された。
(河野 正 / Tadashi Kawano)
河野 正
1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。





















