妻の耳にも届いた罵声「高い給料もらってんだろ」 浦和移籍で心痛…元日本代表が味わった苦悩

山瀬功治氏が浦和移籍時を回顧【写真:FOOTBALL ZONE編集部】
山瀬功治氏が浦和移籍時を回顧【写真:FOOTBALL ZONE編集部】

2003年に悩み抜いた末に浦和レッズへの移籍を決めた

 2000年にJリーグのコンサドーレ札幌でプロ選手となった山瀬功治氏は、J1とJ2の計8チームに在籍し、2024年をもって43歳で現役を退いた。日本代表としても13試合に出場し、25年も現役を続けただけに、“禍福はあざなえる縄のごとし”という言葉がぴったりのサッカー人生だった。24年連続得点のJリーグタイ記録を樹立した最終クラブ、レノファ山口までの来歴をつづった。(取材・文=河野正/全8回の2回目)

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 2002年8月17日、東京ヴェルディとの第1ステージ最終戦で山瀬は右膝前十字靭帯断裂という全治8か月の大怪我を負った。これだけでもやるせないのに、浦和レッズから獲得の申し出が届いたのだ。この案件には随分と頭を痛め、悩み抜いたという。

 この年のコンサドーレ札幌は、16チームで争ったJ1で最下位に終わり、2度目のJ2降格の憂き目に遭った。プロのキャリアをスタートさせた札幌には恩義があり、移籍することにためらいを感じたのだ。それでも高いレベルでプレーし、自分をさらなる高みに導く腹を固めた。浦和への移籍を決めたのだ。

 かくして2003年、日本代表も率いたハンス・オフト監督が2年目の指揮を執る浦和へやってきた。まだチームの実力より、サポーターの熱狂度と観客動員力のほうに耳目が集まっていた時代である。

 性格は人見知りで口下手。囲み取材に出遅れて後方に回ると、聞き取れないほどの小声だ。移籍当初は記者の目を見て答えず、天井や遠方を見ながら回答していた。

「浦和に来て最初に困ったのは、緊張してチームになじむのに時間が掛かったことですかね。先輩とどう接したらいいのか分かりませんでした。でもいい先輩ばかりで、城定(信次)さんは自分と同じ怪我でリハビリ中だったので、すごく仲良くしてもらいました」

 3月29日のサテライトリーグ・鹿島アントラーズ戦で実戦復帰し、8日後の名古屋グランパスとの第1ステージ第2節で後半28分からピッチに立った。「身体そのものは元の状態に戻ってきたので、あとは技術面と試合勘を養いたい」と、やっとのことでスタートラインに立った喜びを口にしたものだ。

 第6節のセレッソ大阪戦で移籍後の初得点を挙げると、トップ下で初先発した次節の東京ヴェルディ戦では先制のミドルシュートを決めた。ここから5試合続けて先発し、第10節の横浜F・マリノス戦でも先制点を蹴り込んだ。

 リーグ戦が約1か月半中断していた6月4日、元浦和の小野伸二がいるフェイエノールト(オランダ)との親善試合があったが、山瀬はこの試合でまた右膝を痛めてしまう。今度は亀裂が入った半月板のオペである。8月16日の第2ステージ開幕戦にはスタメンで復帰したが、「手術してからパフォーマンスはかなり落ちた」というのが当時の自己評価だ。

浦和では不慣れな気候にも苦戦した

 北海道と真逆の気候にもひどく閉口した。「初めて関東地方の夏を迎え、半端ない蒸し暑さに順応できなかったことも、コンディションが上がらなかった一因だと思う。札幌の暑さとは全く異質で、サウナの中でサッカーをしている感覚でした」と述懐する。

 第2ステージは全15試合に先発したものの、8月から10月は納得のいくプレーが全くできなかった。第3節のヴィッセル神戸戦と第8節のベガルタ仙台戦で得点したとはいえ、自分ばかりか観客も合点のいく出来ではなかったようだ。

「使えねーなあ」「高い給料もらってんだろ」――。浦和駒場スタジアムで応援する妻・理恵子さんは、観客が山瀬に浴びせるブーイングと罵声、怒号を耳にしていたたまれなかった。夫婦そろってつらい日々を過ごしたが、それでも“やるしかない”の一念だけで、至福のときがやってくるのをじっと待った。

 そうして11月3日、前年の決勝で屈した意趣返しとなる鹿島とのナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)決勝を迎える。前半13分、山瀬は田中達也の右クロスをヘッドで流し込み、決勝点となる先制ゴールを決めた。浦和が雨中の対決に4-0で完勝。クラブにとっては初、山瀬は札幌時代のJ2制覇に続く優勝だが、主要タイトル獲得は初めてだった。

「ナビスコ杯の優勝を境に自分の気持ちにも変化があったんです。少しだけ余裕が出てきたというか、やっと浦和の一員になれたというか」

 歓喜から5日後、3位の浦和は首位の東京Vとの第12節に臨み、5-1の大勝を収めて首位に立った。

 前半25分の山瀬のチーム3点目は、「プロになってから技術的に最高のゴールだった」と自賛する出色の一撃でもあった。山田暢久の右クロスを左足であえて前方に大きくトラップ。一瞬でマーカーをかわすと、ワンバウンドしたボールを右足でゴール左隅に蹴り込んだのだ。滅多に見られない曲芸師のような芸術的な得点。2万人近い浦和駒場スタジアムの客は、万雷の拍手を送った。

 リハビリ期間中の移籍に不慣れな気候、引っ込み思案な性格に上がらない稼働率と観客の悪たれ口……。浦和での1年目は大怪我から元の身体に戻るまでの難しさを経験し、いろんな苦しみを味わいながらも、ナビスコ杯制覇というご褒美が届けられた。1つ年下の田中達也という生涯の友もできた。

 山瀬は2年目に向け、「来年は浦和のリーグ優勝とアテネ五輪に出ることを二大目標にしたい」と穏やかな表情で抱負を語った。しかし、またしても試練が訪れる。

(河野 正 / Tadashi Kawano)



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河野 正

1960年生まれ、埼玉県出身。埼玉新聞運動部で日本リーグの三菱時代から浦和レッズを担当。2007年にフリーランスとなり、主に埼玉県内のサッカーを中心に取材。主な著書に『浦和レッズ赤き激闘の記憶』(河出書房新社)『山田暢久火の玉ボーイ』(ベースボール・マガジン社)『浦和レッズ不滅の名語録』(朝日新聞出版)などがある。

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