日本代表と「五輪経由W杯行き」 大会直後にA代表で飛躍、英雄になった“歴代3人”

元日本代表MF稲本潤一(2000年シドニー五輪)【写真:Getty Images】
元日本代表MF稲本潤一(2000年シドニー五輪)【写真:Getty Images】

中田英寿は翌年のW杯予選で活躍、稲本潤一は日韓W杯で英雄的存在に

 東京五輪のサッカー男子で日本の快進撃が続いている。グループリーグでは唯一の3連勝で準々決勝に進んだ。今回のチームは久保建英や堂安律など、すでにA代表に定着している選手たちも多いが、ここから飛躍していく選手はさらに出てくるだろう。

「アテネ経由ドイツ行き」というメッセージを発したのは、2004年のアテネ五輪で日本を率いた山本昌邦氏だ。五輪を経験してA代表の主力に上り詰めた選手は少なくないが、今回は直後のワールドカップ(W杯)で輝いた代表的な3人をピックアップする。

■中田英寿(1996年アトランタ五輪→1998年フランスW杯)

 日本サッカー史上でも最高選手の1人として現在も記憶される中田英寿は、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)でプロデビューすると、1995年のワールドユース(現・U-20W杯)でベスト8の立役者に。アトランタ五輪で日本を率いる西野朗監督に“飛び級”で招集されて、金メダル候補の本命とされたブラジルに勝利する「マイアミの奇跡」の一員となった。

 結局、金メダルを獲得するナイジェリアに敗れて得失点差でグループリーグ敗退を喫したものの、翌年5月に20歳でA代表に選出されると、フランスW杯アジア最終予選でイランを相手に3アシストを記録して「ジョホールバルの歓喜」の立役者となり、そのまま本大会で攻撃の中心的な存在に。チームは3戦全敗に終わったものの、髪の色を金に染めて奮闘した中田はセリエAに昇格が決まっていたペルージャからオファーを受けた。

 そこから自分の世代である2000年シドニー五輪での活躍はもちろんのこと、2002年日韓W杯で史上初のベスト16進出に導くなど、日本サッカーのスーパーレジェンドとしての地位を確立していった。

■稲本潤一(2000年シドニー五輪→2002年日韓W杯)

 “黄金世代”の象徴といえば1998年フランスW杯に最年少で選ばれた小野伸二だが、2000年のシドニー五輪を転機としてA代表の中心に飛躍したのが稲本潤一だ。高校在学時にガンバ大阪ユースからトップ昇格して、当時最年少だった17歳6カ月でJリーグデビューを果たした。

 1999年のワールドユースではA代表を兼任するフィリップ・トルシエ監督が率いるチームで準優勝。不運な負傷もあり、完璧なコンディションでチームを引っ張ることはできなかったが、その後のスペイン代表の中心を担っていくシャビとのマッチアップを経験したことが、その後のキャリアにも大きなプラスになっていった。

 同じくトルシエ監督が率いた2000年のシドニー五輪では、主力のボランチとして中田、小野、中村俊輔、宮本恒靖らと奮戦してベスト8に。メダルが期待されるなかでアメリカにPK負けを喫する苦い経験をしたが、翌年にはアーセン・ベンゲル監督が率いていたアーセナルへ移籍。なかなか出番を得られなかったが、トルシエ監督の厚い信頼で日韓W杯のメンバーに選ばれると、ベルギー戦では一時逆転となるゴールで2-2の引き分けに貢献、そしてロシア戦(1-0)では歴史の扉をこじ開けるゴールを決めた。

 2010年の南アフリカW杯まで日本代表に選ばれた稲本は82キャップを記録。そして同年1月に川崎フロンターレでJリーグ復帰してから北海道コンサドーレ札幌、SC相模原と渡り歩き、小野(札幌)、高原直泰(沖縄SV)という“黄金世代”を代表する選手たちとともに、現役生活を続けている。

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河治良幸

かわじ・よしゆき/東京都出身。「エル・ゴラッソ」創刊に携わり、日本代表を担当。著書は「サッカーの見方が180度変わる データ進化論」(ソル・メディア)など。NHK「ミラクルボディー」の「スペイン代表 世界最強の“天才脳”」を監修。タグマのウェブマガジン「サッカーの羅針盤」を運営。国内外で取材を続けながら、プレー分析を軸にサッカーの潮流を見守る。

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