稀代の“レジスタ”ピルロを生んだ名将との出会い ミランで味わった栄光と最大の挫折

ピルロはキャリアの全盛期をACミランで過ごした【写真:Getty Images】
ピルロはキャリアの全盛期をACミランで過ごした【写真:Getty Images】

【サッカー英雄列伝|No.5】アンドレア・ピルロ(前編)――“線の細い”トップ下がブレシアで見つけた新たな道

 中盤の底、ボランチと呼ばれる選手は今でこそゲームメイクができてこその存在だと言われている。しかし、20年ほど前のサッカー界では、攻撃面への貢献はオプションであり、まずは最終ラインの前で守備力を発揮できることが何よりも求められた。そうした時代に、大きな風穴を開けた選手がいる。それが、イタリアが生んだ“マエストロ”ことアンドレア・ピルロだった。

 イタリア北部ブレシアで生まれたピルロは1995年、そのブレシアのユースチームからトップチームに昇格した。当時のピルロは、いかにも“線の細いテクニシャン”だった。トップ下を主戦場として、華麗なラストパスで才能を見せつけたピルロは、幼少期からの憧れだった名門インテルへの移籍を勝ち取る。ちょうど、98年フランス・ワールドカップ(W杯)が終わった時だった。

 しかし、名門でプレー機会が満足に与えられることはなかった。当時のイタリアサッカーの常識として、トップ下の選手としてのピルロは細すぎたのだ。翌年にはレッジーナへレンタルされ、2001年の冬には故郷ブレシアへ再度のレンタル移籍。しかし、ここでピルロのキャリアには転機が訪れる。

 そこには、元イタリア代表の“ファンタジスタ”であるFWロベルト・バッジョ、後に世界最高の指揮官として名を馳せるスペインが生んだプレーメーカーのMFジョゼップ・グアルディオラ、そして、選手の能力を最大限に生かすことに定評のあった名将カルロ・マッツォーネ監督がいたからだ。彼らとの出会いは、ピルロのキャリアに明るい光を照らし、新たな道を示した。

 マッツォーネ監督は、前線にバッジョと点取り屋のFWダリオ・ヒュブナーを起用していた。地方の小クラブであるブレシアに、さらに攻撃的な選手、それもピルロのような技巧的な選手を配置する余裕はあまりない。しかし、ピルロの才能を生かしたいマッツォーネ監督は、ここで新たな道を示した。それが、ピルロを最終ライン前のプレーメーカーに配置するというやり方だ。

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