神に愛された“悲運の天才”バッジョ 若き日の苦闘と灼熱のアメリカで散った夢

 

悲しみを背負ったユベントスへの移籍

 そのバッジョは、W杯開幕前に移籍問題に揺れていた。フィオレンティーナ上層部がバッジョの放出を決断し、サポーターは大激怒。警官隊が出動するほどの暴動になった上で、ユベントスへ当時の世界最高額である160億リラ(当時レートで約19億2000万円)での移籍がまとまっていた。

 バッジョはフィオレンティーナからの移籍を望んでいなかったが、初の古巣対決で悲しい出来事が起こった。試合前からバッジョを巡って両チームのサポーターが口論になるなか、ユベントスがPKを獲得するとキッカーに指名されたバッジョは拒否。激怒した監督から懲罰交代をさせられたが、フィオレンティーナのファンからは大きな拍手で送られた。

 そして試合後、スタンドから投げ込まれたフィオレンティーナのマフラーを首にかけてスタジアムを後にしたことで、ユベントスのサポーターからも厳しい声をかけられることになった。バッジョは後に、自伝で「心はフィオレンティーナにあるという表現だった」と述懐している。

 それでも93年にバロンドール(欧州年間最優秀選手)を獲得するなど、名実ともに世界トッププレーヤーになっていたバッジョは、イタリア代表として自身二度目のW杯である94年アメリカ大会に出場。この大会でイタリアは“背番号論争”を避けるため、フィールドプレーヤーはDFから順番に、アルファベット順に番号をつける措置に出た。そのため、FWは軒並み10番台後半から20番台の番号だったが、例外を認められたのがACミランのキャプテンであるDFフランコ・バレージの「6番」と、バッジョの「10番」だった。

 アリゴ・サッキ監督がそれだけ特別視したにもかかわらず、第2戦のノルウェー戦で世界を驚かせるシーンが生まれた。0-0で迎えた前半のうちに、GKジャンルカ・パリュウカが退場処分になると、控えGKルカ・マルケジャーニをピッチに入れるために交代ボードに示されたのは「10番」だった。

 

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